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My Self-Loathing

日本語で「自己嫌悪」と書くと私にとってイメージが違う。吐き気がするほど嫌いではない。なんか一緒にいたくないなあぐらいな感じ。Loathingにも色々なニュアンスがあるようで私の場合は軽い disgust。でこれがやっぱり日本語だと「嫌悪感」。

私はこの感覚悪くないとおもう。期待があまり無いから自分だけの失敗に対して全然頭にこない。またかと残念に思ったり、やっぱりと悲しくなることはあるけれど。「明日は此奴にもう少しましな行動させなければ」とも思える、どうせダメな奴、奴は上にしか登れないみたいに。

他の人々を巻き込んだ失敗をしたときは自分という奴と私自身を半々にせめる。奴のポンコツ具合に悪態をついて、操作している私が準備を怠り愚かな判断をしたなと思う。もっと奴がましな性能だったら、もっと私が賢い判断出来てればよかったと思う。そして次は出来るように奴の性能を上げて、私は学び、策を練る。世の中をみて、周りの人の動きをみて、私と奴以外は全て変わりゆく環境にすぎないと思って。

今日はいつも好きで見てる Psych2Go の self-loathing に関するビデオを見て、それ影響を受けてこれを書いている。ビデオの内容は「あなたが自己嫌悪をしているかもしれないサイン7つ」だった。いくつかの感情の動きや行動パターンを上げてそれらが自己嫌悪のサインかもしれない事をあげる物だった。私個人にあてはまるものや、そうでない物があったが、見ていて浮かんできたのが

私は私自身を無理にでも好かなければいけなのか?

という疑問であった。イチゴが好きな人もいればそれが嫌いでリンゴが好きな人もいる。AさんはBさんが好きでもCさんはあまり好きではないかもしれない。それは「直す」ことでは無いと思う。そして Self-Loathing はAさんとCさんが同一人物だったらみたいな事だと思う。嫌いな人を無理に好きになってゆく必要が無いのと同じように、嫌いな自分自信を無理に好く必要は無いと考える。

嫌いな私自身やそれがすんでいる奴の体とは、もう見たくも会いたくないと思う事が多々ある。目を覚まさない眠りにつきたくなる原因であったりもする。たとえ生きる事自体がこの主観の存在目的だったとしても、その目的を捨てるのはダメなのか?やりたくもなかったマラソンでいつの間にか走っていて、もう途中でやめてしまうのはいけないのか?とも思う。

まあでも奴の事を好いていてくれる大好きな私の妻や、いつも甘えに来る猫のチビがいる間は、私は嫌いな自分という奴の体を操作をして、家庭と少し先のその平凡な未来を出来るだけ守ってゆく事にしよう。