見出し画像

The Osmonds "One Bad Apple"(1970) #ランブルレビューYT

#38マッスル・ショールズ」#54「ハッピー・シャイニー・ピープル」などランブル登場回数の多いオズモンズ。空前のおバカ企画#35「スワンプ紅白歌合戦」では白組のトップバッターを務めるなど、なぜかかなり推されています。

谷口がレコード・コレクターズ「1970年の音楽地図」(2020年3月号)の執筆依頼を頂いた際には、名だたる強豪を抑え、オズモンズだけに「◎」をつけて返信し、編集部の方に驚かれる始末(こういった特集のときには、頂いたアルバムのリストから自分が書きたいアルバムに「◎」もしくは「◯」をつけてお返しするのです)。

今回はそんなオズモンズのストーリーと、彼ら最大のヒットソング「ワン・バッド・アップル」、そして同名のアルバムをご紹介。

アーリー・オズモンズ・ストーリー

オズモンズ(かつての名はオズモンド・ブラザーズ)はその名の通り、ユタ州出身の兄弟グループです。ジャケに写ってるのは5人ですが、実は上に2人の兄貴と、さらには妹マリー、末弟のジミーがいるという、9人兄弟の大家族。長兄のバールとトムは生まれつき重度の難聴で、彼らの補聴器代を稼ぐために地元ユタ州はオグデンで歌い始めたのが、オズモンズ結成のきっかけでした。泣ける話です。

地元で人気が出たので、カリフォルニアまでローレンス・ウェルクのTVショーのオーディションを受けに行きますが、結局ウェルクに会うことができず。せっかく遠路はるばるやってきたし、ということで帰りにディズニーランドに立ち寄ります。オーディションがよっぽど消化不良だったのか、ディズニーランドで即興の歌謡ショーを披露したところこれが大ウケ。あれよあれよという間にディズニーランドのTVショーに出演が決まります。

めちゃくちゃ上手!いわゆるバーバーショップ・カルテットのスタイルで重ねるハーモニー。ステージングも見事です。このとき三男アランは12歳、六男ジェイが6歳。一番小さいジェイが「僕がリードシンガーだよ」なんて言うもんだから、観客も大ウケ。

TVスターへの道

で、当時の大スター、アンディ・ウィリアムスのお父さんがこの放送を見ていたんですね。こりゃすごい、ということで息子に即電話。「すごい兄弟がいるから、お前の番組で使ってやったらどうだ」と進言、そしてオズモンド兄弟は人気番組「アンディ・ウィリアムス・ショー」のレギュラーの座に収まります。絵に書いたようなシンデレラストーリー!

アンディ・ウィリアムスに臆することなく、息もピッタリです。この頃には七男のダニーも加わっていますね。

兄弟は過酷なリハーサルにも耐え、本番もバッチリ決めることから、スタッフからは「ワンテイク・オズモンズ」と呼ばれ信頼されていたとか。努力の甲斐あって、1962年から69年までの7年間、アンディ・ウィリアムス・ショーのレギュラーを勤め上げます。

アンディ・ウィリアムス・ショーは当時世界中で放送され、日本(NHKが放映)でも人気があったことから、1970年ごろからはカルピスのCMに、こちらは家族揃って出演しています。しかも日本語歌唱!

あどけねー!女の子は妹のマリーです。彼女は歌手や女優、TVショーのホストとしても活躍します。一番小さい男の子は末っ子のジミー。日本ではジミー坊やとして大人気だったとか。ラストはファミリー大集合。

ワン・バッド・アップル

バラエティ・ショーの出演者としては優秀なキャリアを歩んでいましたが、残念ながらレコードの売上は伸びず。1970年までに出した10枚のシングル、7枚のアルバムはいずれもノンチャート。アンディ・ウィリアムス・ショーの放送が(一旦)終わる頃には、兄弟たちはコーラス・グループを脱し、ポップ・ロック・バンドとしての演奏を望むようになりました。

この兄弟の偉いところは、バラエティでの活躍に驕らず、常にトレンドを察知し、時流に乗るための努力を怠らなかったことです。バーバーショップスタイルだけでは生き残れないと感じ、1970年の時点で、兄弟合わせてなんと28種類の楽器をマスターしていたとか!一人平均5.6種類ですよ?マルチすぎる。

そんなオズモンズのバンドとしての可能性に目をつけたのがMGMレコードマイク・カーブ。彼はオズモンズとMGMの契約を取り付けると、アラバマ州マッスル・ショールズに送り込み、当時南部で最もアツいスタジオの一つだったフェイム・スタジオのプロデューサーリック・ホールの手に兄弟たちを委ねます。こうして生まれたのが大ヒット曲、「ワン・バッド・アップル」でした。

お見事!あのディズニーランドでのバーバーショップコーラスからわずか8年、こんなにもソウル的な音楽がこの兄弟が飛び出すとは…リードボーカルのメリルも素晴らしいですし、サビで合いの手を入れる七男ダニーの悲鳴チックな超絶ハイトーン!リック・ホールは納得いくものが録れるまで何テイクも歌わせることでお馴染みですし、世が世なら虐待寸前だったのでは!?あな恐ろしや、などと思ってしまいます(あくまで想像)。

作詞作曲はジョージ・ジャクソン。タイトルの「ワン・バッド・アップル」は金八先生でいうところの「腐ったミカン」と同義のことわざですが、「リンゴひとつ傷んでたって問題ないね」「一度くらいフラれても関係ないぜ」という超ポジティブなハッピーシャイニーソングとなっています。

元々はジャクソン5に歌ってもらうつもりでこの曲を書いたとのことですが、モータウン社長のベリー・ゴーディに拒否されたとかで、オズモンズにお鉢が回ってきたというわけです。とはいえ、このブルー・アイド・ソウル的な歌唱がぴったりハマってることを思えば、結果オーライだったのでは。1970年11月にリリースされた当曲は翌年にはビルボード・チャート1位を獲得!同じくアルバム「オズモンズ」も14位に食い込むヒットとなります。

アルバム収録曲もA5のモータウンメドレーや、ケニー・ノーラン作曲のフィリー・ソウル風ナンバー、B5「Flirtin'」など聴きどころ満載。A3「Catch Me Baby」はなんと三男アラン作曲のナンバー。キャリア初の自作曲ながら、ブリル・ビルディング的なポップ・センスに驚かされます。

アフター・ジ・アップル

「ワン・バッド・アップル」のヒットによりレコーディング・ビジネスでも一躍スターに躍り出たオズモンズ。ポップス&ロック路線で、自作曲でもヒットを飛ばすようになります。

オズモンズは演奏だけでなくダンスも達者ですが、振り付けは彼らが活動を始めるきっかけになった難聴の長兄のバールが手掛けています。

70年代以降、グループの売りだったハイトーンボイス・ダニーの声変わりや、TVショーの失敗による多額の借金など、数多の危機が訪れます。その度に家族の絆で乗り越えてきたオズモンド一家。彼らには大切にしている2つのモットーがありました。

大切にすべき順は、1に家族、2に宗教、キャリアは最後。
誰がフロントにたっていようと関係ない。オズモンド家である限り。

高齢になったこともあり、兄弟揃ってのパフォーマンスは2019年をもって一区切り。最後の舞台に選んだのは、妹マリーのトーク番組。しかもマリーの60歳の誕生日という粋な演出でした。

嗚呼、これぞ演歌の花道。これぞ芸能道。まさしく「何故か身に染む 心歌」なのであります。泪橋を逆に渡り、家族の絆で成功を掴んだオズモンド一家。時にはこんな、昭和チックなファミリーヒストリーに思いを馳せてみては。(谷口)

ミッドナイト・ランブル・ショーへのサポートをお願いいたします。ランブルショーで良い音でレコードを聴くための機材や、どうしても皆で聴きたいレコードを買うためなどに使わせていただきます。