ニュースのなかのことば、の続き

先日書いた「ニュースのなかのことば」というノートの続きというか、思考の続きです。

思考に反射神経みたいなものがあるなら、私はすごく鈍い。

無理やりすぐに動かすこともあるのだけれど、そういうときはたいてい、自分の感情も、相手の言いたいことも、その話の本質を見失ったまま、ただ言葉に言葉で反応してしまう。

何かが引っかかったあと、後回しにして、頭の隅においたまま、何かのおりに振り返って考える。そこを刺激する何かに触れたときに、「ああ、あれは、」と思い返す。熟成しているといえば言葉だけはいいのだけれど、実際は思考の容量を食いつづけるから、上手にやめたいと思っている。

「痴漢」を「性暴力」と言う感性に気づかされたというのは正しい。それも確かに私の中になかったもので、世の中にあるということを知ったことだった。その続き。
前回言語化できなかった「気づいたこと」と、気づいて少しだけ変わった私の思考の話です。


クラウド・サーフィンという言葉を知らなかったのだけれど。胴上げの投げ上げないバージョン、大勢の人に持ち上げてもらって、手の上を移動していく行為の名前らしい。画像検索をすれば、たぶん見たことがあると思う。私でさえ「あれか」と思ったので。

クラウド・サーフィンをしている時に、例えば胸やお尻を触られて、胸やお尻などプライベートゾーンに限らず、クラウド・サーフィンのためじゃない触られ方をしたとして——痴漢にあった人はわかると思うけれど、だからわからないでいてほしいのだけど、ただ「当たってしまった」と、「そういう意図を持って触った」の触れ方って、場所とか面積とかそういうのを一切飛び越えて、わかると思うんだ——

私はそれを、仕方ないと思っていた
明確にそう思っていたわけじゃない。触れられて嫌だと言う人を前にしたら、やめてほしいよね、失礼だよね、やめるべきだ、と言っただろう。
でもどこかで、そういう目に遭いたくなければ、クラウド・サーフィンに参加しなければいいと、きっと、確かに、思っていたことに気づいた。

嫌な話だと思う。そんな世の中にうんざりしてる。でも、事実として、自衛の手段を持つ必要があるんだ、と。
だから私は、コンサートには行かないけれど、もし行ってしたときに触られたら、「帰り道に事故にでも遭ってしまえ」と内心つぶやいて、「しょうがない」と笑顔を保つだろうって。そういう「大人の振る舞い」ができないときにはどれだけ盛り上がってもクラウド・サーフィンはしないだろう。そもそもコンサートに行かないだろう。そうやって世の中と付き合うしかないだろうと、心の底では、あるいは心の底から、思っている。

話は変わるのだけれど、私の身の回りはほぼベージュ調のものでそろっている。統一しようという強い意志があるわけではなく、いつの間にか。(あ、また白系のトップスを買ってしまった、、とよく凹む。)
体のラインの出にくい、ドレープがついていたり、ゆったりとした作り、ざっくりと編まれたものが多い。

でも、パキッとした色の幾何学模様のワンピースとか、キャミソールとか、好きだよ。この夏、古着であまりにも安かったから、(ものが増えること、とくに安いという理由でものを買うことを本当に嫌悪しているのに)思わず買ってしまった。胸の下でリボンで結ぶ、青基調のキャミソール。着てみて嬉しくなる。

それを着てどこかへ行くということは、ないよね。
かっちりした黒か白の夏ジャケットを羽織って、絶対に脱がなければ、まあ行けるかもしれないかな。

痴漢に遭いやすいか、レイプをされるかは確率的な問題で、雰囲気や服装はただの神話だという話もある。それを信じていないわけではないけれど(かといって本当に信じているかも、実は怪しい。確率的な問題だとは思うし、それを理由にその格好をやめなきゃいけないのは理不尽だし、そんなこと言う人がいたら本人が被害者の場合でも、被害者じゃない人が「そんな格好でいるから」とか言いだしたら本気で怒りながら「いや神話だからそれ」と言うけれど)

それでも、こういう格好をしていたから、という理由を何一つ持ちたくない。自分が思うのも、人に思われるのも嫌で。そんな思いを万一にするのもおそろしいから、機会を閉ざす。そうやって自衛をしているつもり。(何度も繰り返すけれど、確率的な問題。絶対的に社会と関わらないという選択をしないかぎり、必ず確率的に起こりうる。)

ただ私が私のためだけに、好きな格好をして出かけられるなら、それで誰にも何も言われないで、何も起きないでくれたら。今より少し自由で、今より少し、この世の中を楽しいと思えるんだろうな。

そういう「可能性」を、クラウド・サーフィン中の、クラウド・サーフィンを目的としないボディタッチを「痴漢」と呼んだ人たちの声に見出した。

いつか私が私のためだけに好きなことをして、それで誰かが何かを言ったとして、何かが起こったとして、「ふざけるなよ」と笑いながら凄めるなら。「あなたがおかしいですよ」と論破できるなら。
自由になるために強くなることは、そんなに悪いことではないかもしれない。その強さが、他の誰かの自由にもつながると思えるから、強くなりたいと思える。


これは一応書いておきたい。

家の中で、自分のためだけに好きな服を着ることも、実際そんなに不自由だとは思ってないよ。
下着って私にはそういうものだし。誰にも見られないからこそ、すごくかわいいのも派手なのも着れる。絶対的に私のためだけの贅沢で楽しみ。
でも、家の中で自分のためだけに好きな服を着ること、好きな服を外にも気軽に着ていけること、両方できて、したいようにできる方が、自由さが多くていいなと思ってる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?