エンデ を/から 想像する

そのうち書き直します。

エンデ著、田村都志夫訳、『自由の牢獄』岩波書店 現代文庫版(2007)
#書評ではない


『モモ』からのずいぶん長い断絶を経て久しぶりに手をとったミヒャエル・エンデは、うっすらと影のあるファンタジックな世界をきらきらと展開する魔術師のようだった。

そこに何が含意されているのか。エンデが何を前提とし、何に批判の目を向け、何を言おうとしていたのか。
知りうる限りのすべてでエンデの物語を味わいたい貪欲さと、できれば知りたくない考えずにただ物語を読みたいおびえの間でおそるおそるページをめくったのはほんのわずかで。
思考にひきずられる(集中する)間もなく手はページを捲り、物語は頭の中で場面の継ぎ目なくつぎつぎと展開していった。

エンデは文学の解釈を嫌ったのだという。

 ミヒャエル・エンデは文学の解釈を嫌った。作者がその作品でなにを言おうとしたのか、それを説明や解釈で取り出してみせ、納得することが文学への接しかたではないと、くりかえし話した。
         ——田村都志夫「解説」(『自由の牢獄』pp.291)
 エンデにとって、文学を読むことは「体験」である。体験では、今まで知らなかったことと出会い、それに触れ、そのなかを通り行くことで、自分が変わり、まわりの世界が変わる。……(中略)……。エンデ文学を読むことは、その作品がくりひろげる世界を旅することだ。
                       ——同 pp.291-292
 エンデにとって一番大切だったことは、彼方から降りそそぐ光に照らしだされる、さまざまな世界を、そのすがたを崩さぬように、すくいだすことにあったと思う。
                         ——同 p.303

たとえば、世間をだましていた間は信じ讃えられ、真実を語ることで狂人か詐欺師とされたヒエロニムス/インディカヴィア(「道しるべの伝説」)。

それでも騙すことは誤りであり真実を語ることが正しいのだとも、だから適切に世間と距離を取らなければならないのだとも、物語は語らない。
ただそのヒエロニムス/インディカヴィアの状況を示し、展開していく。

読み終えて、エンデが——右の頬杖をついた白黒写真が——唇の端をあげて笑ったような気がした。

そう、世の中にはそういうことがあるということを、私(読者)は物語の中で確かめる。
そしてエンデは笑う。「それで?」とも、「そうでしょう、」とも。
自身は語らず、ただ読者の言葉を待ち、問いかけ、展開してみせた物語の効果を——未知の反応を——たのしむように。

だからここで終えてよいと思う。

エンデは体験をくれる。私はその体験を——エンデの物語のなかでの経験を——考え、解釈してゆけばよい。

エンデが体験をくれるということを、今の私にできる最大限で『鏡のなかの鏡』の書評で書いた。エンデについて書くことはそれで十分で、私に書ける最大で、以上は過剰だと思う。

けれど、すこしだけ。エンデという人を想像する。

「道しるべの伝説」の一節に、次々とページをめくる手が止まった。
それまで洪水のように知覚にあふれていた物語の場面が——情景が、音が——一瞬止まり、「本」に思考が引き戻され文字の並びに目が止まる。

わけも知らず、この世に自分の故郷がないと感じる人がいるものだ。まわりの人たちが現実と呼ぶものが錯覚に思われる。
         ——「道しるべの伝説」(『自由の牢獄』 p.245)

エンデもまわりの人たちが現実と呼ぶものを頼りなく思っただろうか。そういう感覚を持つ人がいるという知識を持つだけでなく、彼自身がその感覚をどこかで持っていたのだろうか。

わずかではあったけれど、ついと差し入れられた停止だった。

訳者は思考の一つとして、と前置きしながら、自然科学万能主義のなかで精神世界が切り捨てられるか、精神世界さえも自然科学が扱い、自然科学の中へ取り込んでしまうことを、エンデがていねいに注意深く見つめいたという。
(……と読んでいたのだけど、読み返したら実は、訳者は「エンデが」とは、明示はしていない。『モモ』を想定しながら私はそう読んだようだ。大筋外れていないとは思うが、念のため。/ pp.301-303)

虚空に張った綱の上を、ときには身軽に、ときには重い足取りで渡ってゆくエンデは、その渡ってゆくなかで、さまざまな世界を出現させた。
          ——田村都志夫「解説」(『自由の牢獄』p.304)

真理、常識とされるもの、まわりの人たちと自身とのズレに対して、注意深く、辛抱づよく観察することを選んだエンデ。
だからこそこうした物語が生まれたのだと。

エンデが、あらゆることに関してでなく、一部でも。絶対的にないと思うのではなく、覚束ない、半分も信じれない、くらいの感覚であったとしても。
この世の中に故郷がないと思い——私はそれに田舎という以上の、帰ることのでき帰りたいと思う場所、無理をしないでただ在ることのできる居場所、と強い意味を想像する——、周囲の信じることを素朴に信じることができなかったとしたら。

どこかで希望を持っていいだろうか。

一歩踏み外しても、気を緩めても、維持できなくなる綱渡り。
人が素朴に信じられるものを信じられない不安や孤独感、
張り詰めた神経を緩めた瞬間に足元から崩れ落ちるような心もとなさ、
その心もとなさの上で世の中と自分の差異を観察し調整し続ける不安定さ、
いつまで続くともしれない疲労のなかで降りてしまいと思うこと、
続けたとしていったい何になるのだと泣き出したい徒労感。

そういったものをすべて、
いつかときには軽やかに楽しむこともできる日がくるのかと、
その過程であるいは成果として、「他でありうること」を他者に想像させるような物語を生み出すかもしれないと。

エンデは間違いなく特別な人だけれど、エンデも人であるというただそれだけを前提に、物語の断片から勝手に描いたエンデの一部を根拠にして、そんなふうに信じることができるだろうか。

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