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出会いを手帳に書き込む

無駄なことのなかった2020年

今年もあと一ヶ月と少々を残すのみとなりました。終わってもないのになんですが、わたしを含めて世界中の多くの人々にとっておそらく一生でもっとも無駄なことのなかった年になるはずです。

無駄がなければ充実するのでしょうか?そうではありませんね。しかも困ったことに満たされない一年でした。まだ、過去形で語れないのは残念であります。便利さ、快適さと引き換えに無駄をなくしていくときには、窮屈なこと、画一化への抵抗が薄れるため、つまらないという感覚すらマヒしたものでした。そこでは自分の勘(感)というもの、動物的な嗅覚を失いつつあるのではないかと思います。本当につまらない。

IT化によってさまざまなことが便利になりました。忙しければわざわざお店まで足を運ばずともショッピングはできますし、ネットの配信を見れば映画館に足を運ぶ必要もありません。便利になることはセキュリティ面を危うくすることです。セキュリティをとことん追求すれば不便になっていきます。それでもわたしたちは、その折り合いをうまくつけて、そこそこ快適にくらしていた“はず”でした。そう、これまでは。

2020年世界を襲った未曾有の不幸の中はわたしたちに「安全か快適さ」かという二者択一を容赦なく突きつけています。命を守るため安全にくらすため、無駄なことをなるべくしないようにするしかありませんでした。友だちといっしょにお茶を飲んだり、好きなアーティストのコンサートに行ったり、学校に行ったり、そうした時間は非生産的であり、効率面から考えても無駄なことです。だから、それができなくなっても受け入れるしかなかったのです。

そして、2020年はわたしが社会に出てから30年以上の中で、最も人に会えない一年でした。他人はすべて病気の感染源になり得る存在で、他人にとってもわたしは感染源になる可能性(リスク)なのです。大切な友人たちともなかなか会えませんでした。それどころか、自分の両親の介護施設に行っても面談すらなかなかできません。面談できてもガラス越し、夫が倒れ病院に搬送されるも、会うことすらできないケースもあります。一方でわたしたちは、常にリスクと向き合っているから、ちょっと傍観している感じがしています。コロナのリスクより、生活費のリスクのほうが高いからです。

実際に無駄が失われると、日常も文化も余裕も失われつまらない生活になってしまいました。不自由な安全さは、心が満たされないから安心すらできないのです。無駄なことを自分でやらないようにすることと、無駄なことをすることができないというのはまったく意味が違います。外出もままならず、友人とも会えない。まるで囚人になったかのようです。これまでのわたしたちの日常はじつに多くの無駄に支えられてきたことに、いまさらながら気づかされました。無駄や面倒なことこそ日常の持つ“小さな幸せ”でした。

子供の送り迎えも、パートナーとのショッピングも、それができること自体が幸せです。2021年の手帳には、わたしはどれだけ多くの無駄を書き込めるでしょうか。人間であるためにわたしは無駄なことをいっぱいしたいし、みなさんといっしょに無駄を楽しみたいのです。来年は日々の小さな幸せを拾い集めて、豊かな生活を送れることを心から祈ります。そして、2021年は今年会えなかった分まで多くの人と会いたい。新たな出会いを手帳に書き込むことができたらなあと思います。

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