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承認欲求と自己肯定を知るまでの話。

私かわいそう。

とつぶやいてみた。過去の自分が考えていたことだ。

かわいそうな理由はいくつかあった。
私は年の離れた優秀な兄がいた。塾にも通わず、学校の授業と自力での学習だけで名門大学に行った。
私は兄が大好きだった。兄が好きな漫画を読み、兄の話を聞き、兄のテスト勉強の手伝いのために家の中で兄とすれ違う時にテスト範囲の問題を出したりしたこともあった。大好きなお菓子を我慢して兄に渡したことも覚えている。
でも兄は私を置いて家を出て行ってしまった。進学のためだ。

ところで、母は大変厳しい人であった。
成績はいつも厳しくチェックされ、高校進学のための進路を決めるおり、言われた。
「今の成績じゃB校にしか行けない。塾に行きなさい。お兄ちゃんと一緒のA校に行きなさい。……まったく、お兄ちゃんは塾なんて必要なかったのに。」

私は幼い頃から要領が悪かった。
好きなことには熱中するが、集中力が長続きせず、色んなことに興味があり、忘れ物は多い。宿題はやる方が珍しい。
でもいつも優秀な兄のそばにいて兄の勉強を見て、知識を語る兄の話を楽しく聞いていて、兄の部屋にある本をたくさん読んでいたから、中学1年くらいまでは母の目を誤魔化せていたのだと思う。
だんだんと、周囲との差がつき始めていたのだ。
私は塾に行った。塾の先生は楽しく、勉強も楽しかった。問題が解ける。楽しい。母も褒めてくれる。嬉しい。

A高校に合格した。兄と同じ学校だ。
兄は成績優秀で、部活動でも成績を残し、生徒会役員もつとめた。見目もよく、休日は女子と出かけていた。
私もそうなるのだと思っていた。
毎日遅刻ギリギリで登校し、ぼんやり授業を受けた。宿題は出したり出さなかったりした。
周りの子たちは休み時間には各々集まって、さっきの授業のここの内容が分からなくて、とか、授業で登場した小説のこの文章の解釈はこうだ、とか、そんな話をしていた。
何が楽しいのだろう?どうしてそんなワクワクしながら授業の振り返りが出来るのだろう?変な子たちばかりだ。つまらない。そう思いながら、共感するフリをして、笑って過ごしていた。
私がただ一人異質な存在だったが、それにしばらく気がつくことは無かった。
彼ら、彼女らにとって、学校は新しい知識を吸収出来る楽しい場所だった。

高校2年生。毎回テストでは赤点ギリギリを取り、なんとか進級出来た。
遅刻することが増えた。眠れていなかった。
「今日は行くの?行かないの?もうお母さん学校に電話するの嫌だから自分で先生に電話して。」
勉強はどんどん分からなくなった。授業の内容も分からない。テストももちろん点が取れない。つらい。つらい。つらい。
母から、成績について言及されたことはなかった。母にとっては”地域で上位のA高校に子どもが2人も入学した”ことが事実としてあった。
私は助けてほしかった。でも助けてもらうためにどうしたら良いか、もう分からなかった。

「お母さん、眠れない」
「朝ちゃんと起きないからでしょ」

「お母さん、テストで点が取れない」
「ちゃんと学校行ってないからでしょ」

「お母さん…」
「お兄ちゃんはよく出来てたのに、なんであんただけこうなの?」

「ほら、起きなさい」
「うるせえクソババア」
「親に向かってなんてこと言うの!謝りなさい!」

明るく優しい母だったが、家の中では顔を合わせると衝突するようになった。
母の食事に文句ばかり言っていたら、お弁当や外食が多くなった。
母に笑いかけてほしかった、褒めてほしかった。

その頃の私の体の中にはいつもマグマが沸いていた。何がきっかけで吹き出すか自分でも分からなかったし、吹き出さないように抑えることも出来なかった。
吹き出すと止められなかった。つらかった。誰か止めてほしかった。

母はいつも怒ったり、泣いたりしていた。
怒らないでほしかったし、泣かないでほしかった。母が怒ったら、私も怒った。
父はただそれを眺めていた。一度だけ父に腕を掴まれたことがあった。私が怒りに任せて家の中のものを壊そうとした時だ。
父はいつも静かだった。まるで自分の家庭のことではないような顔で、静かに母と私を眺めていた。

進路を決めなければいけない時期になった。
「大学だけは出ておきなさい。働いた時に中卒・高卒と給料に差が出るんだから。」

公立大学と私立大学をそれぞれ受験し、私立の方にはなんとか合格した。
入学準備を進める中、母が言った。
「お兄ちゃんは公立でお金がかからなかったのに、私立はこんなにお金がかかるんだね…」
早く大学を出て、働いて、学費なんて全部返してやろうと思った。
実家を出て兄の住む部屋の近くに部屋を借りることになった。これで母親から解放される。大好きな兄の近くに行ける。

久しぶりに会った兄は、私が知る兄ではなかった。
私は兄が大好きだったので、しょっちゅう遊びに行って部屋に入り浸っていたが、兄は明らかに迷惑そうにしていた。
兄は私のことはどうでも良かった。
兄とは疎遠になった。電話番号とメールアドレスは携帯電話に登録されているが、それだけだった。

アルバイトを初めた。
実家にいた時は米の炊き方も知らず、包丁もほとんど握らずに過ごし、自炊なんてしようとも思わなかった。母からは時々電話がかかって来て「ちゃんと料理しなさいよ」などと言われていたが、いつも具無しのインスタント麺を食べていた。
まかない付きのところが良い。
居酒屋で働くことになった。

働いたらお給料がもらえる。誰の許可も要らず好きなものが買える。
シフトはいつも入れられるだけ入れた。
大学が終わったらバイト。帰って寝て、起きて大学へ行き、バイト。土日もバイト。
毎日終電で帰宅した。元々眠れていなかったが、さらに眠れないようになった。
徹夜して学校へ行き、授業中に寝た。終わったらバイト。
働いたら働いた分だけお給料がもらえる。
その金額は、大きければ大きいほど、マルをたくさん貰えるような感覚だった。
実家ではいつもいつも怒られていた。
バイトではたくさんマルをもらえた。
生きていて良いのだと思えた。

ある日母から電話があり、怒っていた。
「あんた、どれだけバイトしてるの?扶養の範囲を超えてるじゃない!お父さんに税金の請求が来たんだよ!変なバイトしてないでしょうね。キャバクラとか。ああいうのは絶対にやるんじゃないよ。」
店長に相談して、シフトを少し減らしてもらった。

バイトが無い日は何をしたら良いか分からなかった。
ネットの世界に溺れた。ネット上ではどんな発言をしても良かった。およそ現実の自分では言えないようなことも言えた。女であるというだけで仲良くしてくれる男性がたくさんいた。
その内の仲の良かった一人と通話するようになり、会ったこともないのに付き合い、とうとう会うことになった。
男は会うなり「かわいい子で良かった」と言った。「良かったそう思われて」と私も言った。

外見に気をつかうようになった。外見を良く保っていれば、男たちがマルをくれた。もらえないこともあったが、マルをもらうためのコツも分かってきた。私はマルがたくさん欲しかった。


大学を卒業した。
就職活動はよく分からず、相談する友人もおらず、適当に応募した会社に入社した。
2社しか応募せず、ネット上の口コミで評価が高い方にした。
男たちにマルをもらうのが得意になっていた私は、会社でもマルをたくさんもらうことが出来た。
人間なんて簡単だ。
人がやりたがらないことは率先してやった。そうしたらマルがもらえる。
自分のミスではないことでも怒られたら謝った。マルがもらえる。
誰よりも遅くまで残って働いた。頑張ってるでしょ、えらいでしょ、褒めて褒めて褒めて褒めて


死にたい。
結婚して子どもを産んだら母親という新しい役目がもらえる。生きてて良いと思える。はず。
結婚したい。
結婚したら母からもマルがもらえる。
母にマルをもらえる相手を見つけなきゃ。一流大学の出身で、一流企業に勤めていて、実家も由緒正しい家柄で……
私がそんな人にマルをもらえる訳がない。外見も普通、中小企業に勤めて、生活費で給料の大半が飛んでしまって貯金もない。親に学費を返すなんて夢のまた夢だ。
生きる価値もない人間だ。死ぬほどの理由がこれといってないだけだ。
睡眠薬をたくさんもらって、死のう。
ねえ私かわいそうでしょ。誰からも認めてもらえなくて、親からも愛されなくて、かわいそうでしょ。誰でも良いから愛してよ。


私は死ぬために病院に行った。医者は淡々と話を聞いただけだった。
カウンセラーを紹介された。
「自分がもう一人そこにいると思ってみて」
何も無い、机より少し低い空間を指差して、その人は言った。
はあ?
私はマルが欲しかったから、想像したフリをした。
「自分のことを抱きしめてあげられるかな」
この人は何を言ってるんだろう?
「時々でもいいから、やってみてね」

睡眠薬をもらって帰り、飲んで寝た。死ぬのは怖かったから、もう少し先にしようと思った。
なんと、夜、日付が変わる前に寝ることが出来て、朝、明るいうちに起きることが出来た。
会社に行くのに徹夜しなくても良かった。
嬉しかった。とても。
ゆっくりと朝の情報番組を眺めた。どうでもいい話ばかりだったが、面白かった。

かわいそうな私は、マルをくれる誰かを探し続けた。マルをくれたと思ったら急にバツを付けられることもあったし、私にくれたマルよりもう一人にあげたマルの方が大きいこともあった。誰よりも大きいマルが欲しかった。


ある日、かわいそうな私を何も無い空間に想像してみた。私は泣いていた。死にたがっている。マルが欲しいと泣いている。
私は初めて、泣いている私の頭を撫でてみた。マルならあげるよ。
生きてるだけでえらいよ。仕事して生活費を稼いで自分一人の力で生きてる。えらいえらい。
死にたいか、うんうん。私は死ぬのはこわいぞ。きみも怖いよね。ほんとは生きてたいね。
バツしかもらえない?誰に?……私か。
生きている価値がない。
生まれて来なければ良かった。
お兄ちゃんは優秀なのにどうして私は。
周りの人たちが出来ていることが出来ない。
学費を返すとか言ってたくせに大した給料もらえてない。
見た目も良くない。
デブ。
仕事でもミスばかり。
死んだ方がみんなのためだ。
死んだら親も喜ぶ。
そんなことを言われてたのか。つらかったね。ごめんよ。

かわいそうな自分は、自分で作っていたものだった。
自分は殴られて刺されて切られて傷だらけだった。
初めて気が付いた。

自分を殴ることをやめた。
時々叩いてしまうことはあったが、叩いたことに気が付けるようになった。
傷は少しずつ減っていった。
それから、マルをあげてみるようにしてみた。
そう、知らなかったことなんだけど、自分でも自分にマルをあげても良い。
マルは他人からもらうものだと思っていた。
マルは、本当に些細なことでもあげた。
朝起きれた。
自炊した。
掃除した。
洗濯した。
ゴミ捨てした。
休まずに会社に行けた。
滞りなく仕事出来た。
お風呂に入った。
スキンケア完璧。
目標時間までにベッドに入った。

睡眠薬なしで眠れるようになった。
死にたいと思うことが少なくなって来た。
目標が出来た。
死ぬまでに行ってみたい場所、やってみたいことが色々あることに気が付いた。死にたくない。生きたい。


かわいそうな私はいなくなった。
ある日、何の書き置きもなく、いなくなった。
もう少し早くマルをあげていたら、何か違ったかもしれないと思う。
でも過去には戻れない。
私はこれからも自分にマルを、小さいマルでも大きいマルでも、どんな形でもいいから、マルをあげて生きていく。


————————

あとがき。
母とは今は和解していて、父が家庭に全く参加せず、一人で育児をしなければいけない、なんとか子どもをまともに育て上げなければいけないと自分を追いつめており、また祖母(母から見て義母)からいつもプレッシャーを受けていたらしく、出来の悪い私にはより一層厳しく接していたそうだ。
母はいつも失敗しそうな道をあらかじめ見つけてそちらへは行かないように私を誘導していたので、実家を出るまでは大きな破綻は無かった。が、実家を出てからは自分で様々なことを選択して行かなければいけなかったので、道しるべを失い失敗することが多かった。何とか無事に生き延びることが出来て良かったと思う。
私はのちに発達障害であることが分かり、今は特性を理解し対策し、何とかふつうの人と同じように振る舞うことが出来ている。が、とても疲れるので、一人の時は頑張らないようにしている。
母に話したところ「明らかにおかしかったけど、そういう子なんだと思って厳しくしてた」とのこと。もしかするともう少し早くふつうの人と同じように振る舞う術を身に付けられたかもしれなかったが、周囲からのプレッシャーの中、自分の子どもが障害持ちだなんて知ったら、それこそ母も自分を責めに責めて大変な状況になっていただろうと考える。
父は今でも何を考えているかよく分からないが、父もまた、自身の父親の記憶がなく、父親としてどう子どもに接したら良いか分からなかった、という事情があった。

他人からマルをもらおうとする=承認欲求
自分にマルをあげる=自己肯定

きちんとした用語を使うとこうなる。
私は自己肯定がなんであるかを知らずに大人になり生きて来たという訳だ。

今はマルを自分にも他人にもたくさんあげる夫と穏やかに過ごしている。
夫との生活は私の人生の中で最も幸福と言えて、ただそれでも忘れたくないのは、自分にマルをあげ続けたことだ。夫がバツだらけの私を拾い上げてくれた訳ではない。
私も夫も、自分自身に水をやり、成長を促し、花を咲かせられたことで、お互いの姿が見えたのだ。
今はお互いに水をやり、順番に風除けとなり、日除けとなり、生きている。そう感じる。
このこともまた、別の機会に書きたい。

※身バレしないよう、一部脚色しています。



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