日記※暗い

 友人Kから元同期の訃報を知らされた。KからのLINEメッセージを読んだ瞬間、私はとっさに「なんでそんなこと連絡してきたんだ!?」という怒りに駆られた。亡くなった元同期とはもう何年も連絡をとっておらず、もしかしたらもう一生会うことはないかも、機会があったら会うかもしれないけど…くらいの距離感だった。なのでその連絡さえこなかったら、私の中でのソイツは永遠に「どっかで元気にやってる人」になっていたかもしれない。そのはずだったのだが、その知らせのせいで私の中の彼が故人になってしまった。
 ただこれは突然の訃報による動揺が、咄嗟にやつあたりてきな感情になってしまっただけなので、本当に怒っていた訳ではない。だからしばらくしたら大分気持ちは落ち着いた。ただ、咄嗟に頭によぎった「どっかで元気にやってる人のままにしてほしかった」という気持ちだけは、しばらく消えることはなかった。故人を「どっかで元気にやってる人」にしておきたいって思うのは、やっぱりよくないことなのかな。
 年始に実家に帰ったら、7年前に亡くなった母親宛てに年賀状が届いていた。今届いているということは、たぶん去年もおととしも届いていたんだろう。プリントアウトされた定型文の隣に、お元気ですか?みたいな内容の、手書きの短い挨拶が書いてあったきがする。故人の息災を願う年賀状が毎年届くのは、正しいか正しくないかで言ったら、正しくないことだと思う。だから故人を「どっかで元気にやってる人」のままにしておくのは、やっぱり正しくないことなんだとも思う。
 生死の基準ってなんだろうとよく考える。呼吸があって心臓が動いて生命活動があれば「生」、なければ「死」。そういうんじゃなくて、もっと概念的なほうの生死です。あのー・・・思い出の中で生き続けているとか、作品の中で演者は生き続けているとか、そういう系の生死のはなしね。演者が死のうが生きようが、作品の中の演者はずっと素晴らしい。だからそういう概念(作品の中で生き続けている的な概念)の世界の中では、生命活動基準の生死って、年齢や性別みたいに単なる属性に過ぎないのかも。生者も死者も平等に評価され、尊重される世界。
 人間は、みんなひとりの人間として尊重されるべきだ。そしてそれは、生者だろうが死者だろうが変わらない。そういう系(作品の中で生き続けている系)の世界に限らず、だ。元同期の彼をちゃんとひとりの人間として尊重しているならば、彼を「どっかで元気にやってる人」のままにしといてもいい、なんて思わないんじゃないかな。……。
 ここまで考えて、改めてまたメッセージを読み返した。元同期…Nが亡くなったことがとても悲しかった。冥福をお祈りする。それしかできないから…。
 なぜ友人Kから連絡が来たかというと、Nが亡くなった現場に居合わせてたかららしい。連絡するのもとてもつらいだろうに、わざわざ知らせてくれてありがとうと思った。

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