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219:複数の情報処理プロセスが混線したかのような認識を引き起こす《Paraillusion》

新作の《Paraillusion》を見たとき,映像が三分割されているのに気づいた瞬間に,これはスクリーンが三分割されていて,奥ゆきが違うということに気づいた.私から見て左側が一番奥で,中央が真ん中で,右側が最も手前にあるということがわかった.スクリーンの段差によって,私と三分割されたそれぞれの映像との距離が異なっている.

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でも,しばらく見ていると,三分割されたそれぞれの映像のフォーカスが変化していくのを見ていると,私とこの3つの映像位置関係がわからなくなってきた.左側に表示されているテニスボールにフォーカスが合うと,物理的に一番奥にある映像が,一番手前に見えるようになる.さらに,真ん中と右の映像のフォーカスがずらされて,ボケると,テニスボールは断然手前に見えるようになる.物理的には一番奥のスクリーンに表示されているのは知っていても,手前に目えるようになってしまうのが,興味深い.

さらに,映像の被写体の位置関係をよく見ていくと,映像が撮影されたときには,テニスボールが一番手前にあり,ワインの瓶がその奥,電球の箱と青いテープが一番奥にあることがわかる.これは分割された映像を横切る垂木やテープとテニスボールやワインとの位置関係から知ることができる.映像の被写体の奥行きの順番はスクリーンの奥行きと逆になっている.

スクリーンの物理的な段差と映像内の奥行きのズレ,フォーカスの変化による視線誘導による奥行き情報の操作によって,私は《Paraillusion》を見ながら,酔ってしまった.さらに,今,《Paraillusion》をiPhoneで撮影した画像を見ながら,このテキストを書いているのだが,その画像はスクリーンの段差がなく,単に映像が三分割されているようになっている.そのため,さらに酔いが強くなっている.

ここで私の最初の体験に戻ると,私はなぜiPhoneのカメラのように壁の開口部から見える映像を単なる三分割された映像と捉えなかったのだろうか.段差をもつスクリーンというものはほとんどないのだから,何の情報もなしに《Paraillusion》を見た場合は,その映像は映像内に3つのレイヤーがあると見るのが普通だと思われる.けれど,私にはそのように見えなかった.それは, 私が《Paraillusion》をYOFの作品として見ていて,前回の展示の《2D Painting》では壁の開口部の奥に空間が広がっていることを知っていたことが影響しているのだろう.さらに,iPhoneで撮影した画像では,スクリーンのエッジはピクセルに変換され,映像の被写体と同じ状態にあるが,私はスクリーンのエッジを物質として認識していた.映像のエッジではなく,スクリーンという物質のエッジとして認識して,その物質の構造の情報を即座に処理したといえる.

スクリーンが物質の構造として段々になっていることを情報として知りながら,私はずっと映像を見ていた.そして,その基本情報に映像のフォーカスの変化や被写体の位置情報というあらたな情報が重ねられていった.そして,映像に酔ったし,今も,酔っている.酔いの原因は,スクリーンの段差という物質的・物理的な奥行き情報が私の認識プロセスで強固に存在しつつも,それと相異なるフォーカスの変化による注意の強制的な操作と被写体の位置関係を推測し確定していく操作とが生み出すあらたな情報,さらにはカメラによる物質の情報化ともいえるピクセル化が,私の作品認識に入り込んでくるからであろう.

物質の映像化は,物質とその周囲の空間をひとつのサーフェイスにしてしまう.《Paraillusion》で,YOFはこのサーフェイを段差をつけたスクリーンに投影することで,映像で失われた奥行き情報とは異なる情報を映像に与える.そして,映像を見る人は,YOFが映像に与えた異なる奥行き情報を映像を見ている際に,映像が撮影された際の奥行き情報や注意の誘導でつくられる奥行き情報で,目の前に存在する物質的段差の情報を上書き処理することを求められる.けれど,物質から得られる情報は認識プロセスで処理の優先権を与えられているかのように,上書きされることなく,後から与えらた情報や自ら得た情報に影響を与えていく.その結果,複数の情報処理プロセスが混線したかのような認識が起こってしまう.

私は,今,3D酔いしたかのような感じになっています😵‍💫 

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