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卒研の話、ひっくり返してもっかい考えたのんな?

みかみです、この前卒研どうしよ〜というnoteを書いたのですが、いざ計画書をかくか!となった途端、なんだか卒研に対する自分の気持ちがよくわからなくなって煮詰まってしまい、しかもなんだかこのままでは、最終的に良くない方向に向かってしまう予感がしてきてしまいました。

そのため、一度出来かけになってたところをバッキバキに崩してお茶漬けにして流し込むことで、もう一度最初から考えを組み立て直すことにしました。最終的に、前回のnoteとおんなじことが着地点となるかもしれませんが、それはそれでいいのでもういっかいひとつずつ考えていこうと思います。

よって、このnoteは「私のぐちゃぐちゃとした思考を、思考順にそのまま書き出したもの」になります。急に「誰?」という存在しない人間の存在しないセリフが入ったり、急に文面で暴れ出したり、かなり長文だったりすると思いますので、「そういうのはちょっと…」という方は、すみませんがこの記事を無かったことにして、離れていただけると幸いです。


まじで元気がないよ

実はここ最近、最近と言ってもここ1ヶ月半〜2ヶ月弱くらいですが、ほんっと〜に元気が湧かなくて困ってました。なんの元気かというと、生きる元気です。今後一生懸命生きなきゃいけないのかな〜嫌だな〜もう頑張れないな〜あ〜あと浅瀬でぼんやり思いながら数ヶ月、このどうしようもない虚無を、誤魔化し誤魔化しで出来るだけ周囲にこの気持ちの核を見せないよう気をつけつつ生きてた(私の元気のなさは周囲には関係ないため)んですが、

しかし本当にここいらで少しだけ踏ん切りがつきまして、なんの踏ん切りかというと「無理をしないことに関して、必要以上に罪悪感を抱かないようにする」という踏ん切りです。あらゆることについて思い詰めすぎるのを意図的に回避しようという算段です。

一度きりの人生だから悔いのないようにとか、もう一踏ん張りで違う世界が見えるとか、私を想ってくれた人が色々なことを言ってくれた記憶がありますが、とりあえずは、自分がなんとか生きていけるような方向で頑張っていこうと思います。


ていうかね やりたいことやりたくないこと、挙げよっか

とりあえず、卒研に関してシンプルにやってみたいこととやりたくない(できれば回避したい)ことを挙げてみよう、話はそれからだろうが…


<やってみて〜こと!>

ものづくり(ものでなくても、絵とか小説とかでもいい、なんらかの作品を作りながら活動したい)、最後に一冊の本にまとめるのも大変だろうけど前向き

・↑でつくったものを販売できる仕組みが作れたらいいな。売れるとか売れないというよりは、自分がやっていることの広報の役割として


・8月末に開催されるかもしれんネバマイ(「never mind the books」というzine販売イベント)に参加したい、卒研関係の冊子出したい


・そういえば自然公園が好きだったことを思い出したので、自然公園と絡めた活動がしたい。植物と絡めるのもいいな


<やりたくね〜こと!>

ワークショップ。元々人との関わりが(勝手に疲れるから)苦手で、本来はそういうイベントがあっても「いや…参加しないです…」という人間なため、そのようなイベントを開催する側・参加者を呼び込む側になることに対して抵抗がある。場合によるけど…

研究における提案内容をアンケートとって検証するやつ。アンケートはちょっと味気ない気がするから寂しい。せっかくだったら一緒に話しながら意見を聞きたい。ただ、ワークショップよりは抵抗感はない。


最悪クソガキムーヴメントな<やりたいこと><やりたくないこと>でしたが、どうせ後から妥協点を探らなきゃいけないという前提を基に、ここに率直な気持ちを書き記しておきました。


わたしの生きることにまつわる考え方

ゼミの先生に、「何が好きかを考える」というテーマから卒研を考える、という手法を頂いてはいたのですが、肌に合わずモヤモヤしてしまった(ので、初案を一旦お茶漬けにして流した)ため、自分の「生きている上で意識している課題」を考えて、そこから自分にできること、研究として扱いたいこと…と考えていこうと思います。

まず、私のわたしの生きることにまつわる考え方、人生観(めんどいのでこうまとめます)についてですが、過去の授業で生み出した暗黒の嘘日記noteからその片鱗みたいなのを2つ発掘したので、ずっと使ってみたいと思っていたnoteの引用機能を使って並べてみます。自分の文章なので〇〇から引用とか書かなくていいはず。おそらく。

世の中ってさ、『理由』が明記されずに出回る人生観ってたくさんある気がしてて。『ポジティブになれ』とか、『当たり前のことに感謝しよう』とか、『両親を敬おう』とかさ。理由が記述される前にその思考が広まりすぎて、ふと立ち止まった時に『どうしてそうしたほうがいいのかな』ってわからなくなる瞬間が、中学生と高校生の時よくあったんだよね。その度嫌になっちゃったりしてさ
でも、なんとなく気づいたよ。そんなことを頭の片隅に入れて生きていればいつしかいきなり、その言葉の理由となるような出来事が起こって、知識が結びつくんだなって、そう思った。先生が言ってたんだよね、点と点の知識が結びつくのが『学び』だって
だから今回のこれは、(中略)私が得た『学び』なんだなと、そう思う。でもきっと、全人類にとっての『学び』ではない。あくまでこの『学び』は、私にとっての正解なんだと。だから、他人に押し付けてはいけないんだ。多分…。

これが一つ。で、もう一つがこれ。

ああ、そっか。他人の考えていることなんてわかんないんものだな。これっぽちも。鶯丸が当たり前に月を見ていると思ってきたことも、彼にしたらただの暇つぶしなんだ。思い入れなんてないんだ。なのに知ったようなふりをして、私はただ強い思い込みに囚われていただけなんだ。
そういうことだから、私たちはどうにかして、言葉で、歴史で、深層心理で、相手の真の姿を捉えようとするんだ。それは例えばインタビュー記事だったり、ご飯の最中の雑談だったり、相手が監修した作品だったり、SNS上の言葉だったりする。そんな時、私たちが握っている行動カードの中で一番身近で確実なのが、「会話」なのかもしれない。

以上です。私は多分、『自分の言葉で世界の事象を捉える』ということと、『目の前の相手のことを知る』という行動一連がいわゆる「好き」なことなんだと思います。個人的には、「好き」と言うより、「気づいたらやっていること」なので、厳密にいえば「好き」とか「嫌い」とかの範疇ではないつもりなのですが…。

とはいえ、私の人生観の中で大事にしたいな〜と思っていることはこんな感じのことです。


その上で、「生きている上で意識している課題」についてですが、これはネーミングほど堅苦しいものではなく、至ってシンプルというか…。

とにかく、自分に優しくしたい。しかし、同時に他人にも優しくありたい。

というのが、みかみが生きる上での率直な気持ちです。まず前提として自分も楽して、または楽しんで、その上で相手を楽させて、楽しませたい。といっても、この言葉だけだとあまりにも抽象的なので、具体的にいえばなにが近いんだろな〜と考えていたのですが、まあ、手近な例で言うと、「グループワークにて、みんなも私も(主に気持ちの面で)負担になりすぎないよう頑張った上で、最適・最善な結果を出す」みたいな感じです。

これだけだと「人と人がプロジェクトを囲んだ時の関係性の最適解を探したい」みたいなこと言ってんのかなって自分でも感じましたが、この答えを研究する気は全然ないです。なぜなら、この辺のことを考えると脳がキャパ超えて全て嫌になるからで〜す!フゥ〜!

そう思うと、実際に言いたいことを表すにはこの例では不完全だと思うんですが、今はもう他に浮かばんのでとりあえずこれにさせてください。


私が今までどんなことをすることで生き延びてきたか

なんかタイトルは物騒ですが、つまりは、「自分は楽しく生きたい、相手も楽しいとなおよし」の気持ちで生きている中、しかし実際に現実はそうはいかないじゃないですか。その時、どんなふうにそれを解決して生きようとしていたか?というのをまとめて、卒研の手法のヒントを探ろ〜と思います。

わかりやすい解決の仕方は、過去授業の「フィールドスタディ」
なんかまじでもう眠くなってきたので、この辺のことはさっさか行きます。過去に「フィールドスタディ(以下フィスタ)」という授業で、「実在しない架空の存在と一緒に暮らす妄想をして生きてみると、なんと不思議、その架空の存在と自問自答のような形で内省が出来て、自分の嫌なところや無意識の固定概念に気づき、考えを一歩進めることができたよ」ということをやっていました。

これと似たようなものなんですが、私は小さい頃から、悩んだ時、辛い時、傷ついた時、あれをしたいけど理由があってできない時、自分の中に架空の人物をつくって、その子に、自分の辛い状況や悩み、やりたいけどやれないことを代替してもらい、周囲からどんな反応されるか、どう言われるか、結果その子はどうなっていくのかなどのストーリーを妄想して、楽しんでいました。

その妄想したストーリーの中で気に入ったものは実際に書き起こして漫画にしてみたり、キャラクター設定を作ったりして、自分の中にある世界として大切にしていました。この過程で、私が感じた悩み、辛いこと、傷ついたこと、あれをしたいけど理由があってできないことなどの傷心は消え(いわゆる「昇華」)、むしろ自分を大切に思うような?面白がるような?気持ちに変わっていきました。

私の場合、これをすることで、趣味で描いてる漫画のストーリー構成のアイデアが生まれて、その後作品に昇華するということが何度か発生しました(それが最終的に完成してもしなくても、最悪妄想するだけでも、気持ち的にはスッキリする)。

さらには、作品の中で動く、自分を投影した何かを作品として誰かに見てもらったり、こういうところが共感できるねとか、いいねと言ってもらえることで、自分を肯定してもらえたような気持ちになっていました。

この、「自分を投影した何かを作品として誰かに見てもらい、反応をもらえることで、自分のいいところも悪いところも肯定してもらえたような気持ちになった」の経験を実際に感じたきっかけは、2020年3月末に描いた「春の花が咲く頃」って漫画かな〜と思います。以下が参考画像で、私が今まで考えてきたこと、悩んできたことなどを架空の存在3人に投影して肩代わりしてもらい、その悩みや苦悩が収束する様子を擬似的に味わいました。

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この作品に対する反応で一番嬉しかったのが、twitterの引用リツイートで届いた「泣いてしまった」という旨のコメント。

この作品に対して涙を流すということは、少なからずこの作品中に自分にとって共感できる描写があり、それがどんな形であれど優しい気持ちとして胸中に響いてくれたと推測した。これを、私は「作品を通して気持ちが通じ合った状態」だと感じた。これは、言葉などのを通して味わう「気持ちが通じ合った状態」よりもなぜか深く感動するなと感じている。

で、ひとつ、卒研として考えたのは、以上の私のように、いろんな人に「自分の中の自分とは違う「誰か」を存在してもらう」こと。それで、その対象に悩みを聞いてもらったり、自分が本当はやりたいことを代わりにやってもらったり(シミュレーションしてもらったり)する。一つのストーリーとして妄想してもらう。

それによって、ある意味自分を客観視できたり、自分の人生がよりドラマティックにみえてなんだか特別に思えたり、そもそもこの一連の行動はある意味、自分の心が元となって生まれた妄想上の物語の主人公に肩入れして自分を可愛がるみたいな側面があるので、より自分を大切にできるかなあと思ったりした。

それを結果的になんらかの作品?に起こしてもらい、それを鑑賞しあってお互いに賞賛しあったり反応したりして、楽しい気持ちになったらいいなあとか、そう思いました。考え方がより多様化するこの社会で、自分が考えたことを誰かにいいねと言ってもらえたり、共感してもらえたり、褒められることは本当に明日への活力だと、私はそう思います。

この、私が私を助けるためにやってきた活動の、良い成分だけをなんとか形にして、みんなにも受け取ってもらう?やってもらう?みたいなことができないかな〜と考えた。え?こういうのをみんなにも伝えるって、じゃあワークショップ開催も可能性あるのか?とかも考えたけど、こういう内容なら、もしかしたらできるかもしれない。今、これならもしかしたらやってみれるかもと思えている。

つまり何?

つまり、私が今まで話したことを簡単にいうと、「悩みや苦しみ、コンプレックスやトラウマと言った負の感情、負の感情でなくても気づきや信条、を、自分以外の存在しない何者かを妄想して、負の感情であればその存在に肩代わりしてもらったり、そうでなければ、それに関して一緒に会話したりして、それで感じたことをもの作りの発想として落とし込んでなんらかの作品を作り、それを誰かに褒めてもらうことで、自分の嫌な部分を、自分で良い受け止め方をする・相手に良い受け止め方をしてもらうことができるようなヒントが得られないか?」

だと思う。長!!!!!!!

なんだこれわ!いい感じの自己開示と、自己承認?!?!自己受容!?!?!のやり方?!?!!を考える!??!こと?!?!?!うーん!?!?!!!

でも、最初の案で考えていたことよりは、自分の考えが反映できている気がする!!!!!ので、ちょっと一度これでよしとしてみようと思います!眠い!おやすみなさい!

後半の文章、明らかに眠くなっていっているな〜と言う感じがしてめっちゃ面白いですね。え?めっちゃ面白いってかいてる私 脳死すぎる やば…。なんも面白くないが…。

では、ここまで読んでくださった方、いらっしゃったら、本当にありがとうございました…。

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