すげ〜〜何もしたくない時、すっげ〜〜思考が捗ります なので「最近絵が描けない」ことについて考察しています

ゼミの皆さんに投稿内容が共有されるようになってから初の投稿がこれ…!?許してください ほぼ排泄のような祈りのような気持ちで書いています

※⚠️すきあらば自分語り、しかも思考順にそのまま書き留めているだけなので散り散りな構成です。⚠️※

私は絵を描くのが好きだ。生まれて3〜4年も生きると、いつの間にか絵を描くことを好きになっていた。文字通り朝から晩まで描いていたし、ひどい時は朝も、授業中も、帰ってからも、夜も描いていた。こんな生活を、アホみたいだが高校卒業まで続けていた(絵の上達具合はさておいて…)。

しかし大学生になり、あまりに周囲に迷惑をかけ、何の教養も知識もない自分に嫌気がさし、「よりよく生きよう」と心がけるようになった。そうして、人間としての成長を頑張り始め(結局は周囲の助けが一番大きかったが)、自分に何となく自信の基礎が出来てきた頃、反比例するように絵を描きたい、と思う時間が減った。

このことから考えられることはつまり、私が今まで絵を描いていた理由は「絵が好きだから」だったのではなく、「自分に自信を持つため」「自分に満足するため」だったのかもしれない、という推測だ。

この推測に対し「そうかもしれないな、さて絵を描くか」と割り切れたらよかったのだが、私はそう簡単には飲み込めなかった。恐怖心が湧き上がった。このまま人間としての成長を頑張り続け、いつしか自分を心から認めることができる日が来るとしたら、その時の自分はもう絵を描いていないのかもしれない。

以前までは確かに、私は絵を描くのが生涯で一番好きだったのだ。今でも、気持ちとしては、これからもずっと「絵を描くことが好き」で居続けたい。ずっと絵を描いていたい。好きな絵を、自分の手を、好きなように操り、自分の感じた出来事を自分の好きなように表現したいし、昇華したい。そんな気持ちが、21歳になった今でも心臓に黒くこびりついている。

しかし、こびりついていることは確かだが、それは、あと少しでも手を離せば奈落の崖に落ちて消えてしまうかのような、か細い粘着力に落ち込んできているように感じているのだ。ここ数年、己の激情を無くして以来かと思う。

私のいう「激情」とは、「何かに対するストレス」である。何かに対して許せなかったり、苦しい思いをしたり、恨みを抱いたり…。今覚えば、中学・高校とずっと、私はそれらの激情を全て、絵に描き出すことで救われようとしていた。だから、「絵を描く」という行為が「生きる」行為そのものだったし、「絵を描く」をやめると死んでしまうとさえ、感じていた。

そういった自覚があるからこそ、私は、今の自分は自分の「絵を描くこと」に対する執着が薄くなってきていると、そしてそのことに対して、焦りを感じていると、ひしひし自覚している。「あれだけ自分の命を救うことに、絵を描くことに必死だったのに…」と、生まれてから高校卒業までの18年間で積み重ねてきた己の体が、混乱を起こしているのかもしれない。実際、心にも混乱が起こっている。そこからくる焦りなのかもしれない。

世間一般的に言えば、私が絵を描けなくなったという現象は、「己にかかっているストレスの対処方法にバリエーションを増やしたため、生きやすくなった証拠」「不健康な執着から脱したことで、健康的な精神を確立できている」と思えることかもしれない。

実際、自分の心は「絵を描く」に異様に執着していた以前よりも数十倍解放的になり、割り切れる部分も増えて物分かりも良くなり、ずっと架空の存在だと思っていた「感謝」も、「愛」も、少しだけ心に抱けるようになった。「生きる」のが、やっと楽しくなってきた。偉人たちが口を揃えて言っていた「生きることは楽しい」「生きることは素晴らしい」という信じられない恐ろしい言葉が、少しだけ理解できたし、自分が人間であることを証明できたように感じて、嬉しかった。

しかし、まるで代償かのように絵が描けなくなった。絵が描けなくなったというよりは、「絵を描かなくても自分の機嫌を取れるようになったため、描く必要がさほど無くなった」のだ。

正直、上記の理由で絵が描けなくなったからと言って、何という訳はない。しかしなぜ私はこんなにも焦っているのか?理由は、「絵は私を高めてくれる、唯一の価値だった」という己の価値観に由来するのではないかと、感じている。

小さな頃から「私は親に愛されていない」と勘違いを決め込んでいた私は、常にどうすれば人から愛されるのか、どうしれば周囲の人間に注目されるのか、尊敬されるのか、助けてもらえるのか、許してもらえるのか、好かれるのか…をずっと考えていた。ずっと考えていたが、スカポンタンに偏った当時の脳では、全く答えを導き出せず…。人生のマイナススタートを切っているつもりでいた。当時からもう、すでに周囲より太ましい体格だったことも手伝って、自分は底辺レベルの人間だと思っていた。やっぱ太い人間への嫌悪感は、自分も周囲も小さい頃からあるものなのだ。コンプレックスが凄まじかった。

そんなとき、当時の自分が何とは無しに描いた絵に対して、幼稚園の先生がとても褒めてくれた。今でも覚えている。先生は、1つのテンプレートのように褒めことばを口にしただけであろうことも今では理解できる。しかし当時は、それが本当に本当に嬉しくて、真正面からことばを受け取って、舞い上がってしまった。

それからは、ただひたすら褒められるために絵を描き、絵を描き、すると面白いように周囲の同級生が私を褒めてくれるようになり、そしてまた絵を描き、を繰り返した。当時、我が家の三人娘に手を焼いて常に余裕のなかった両親も、絵だけはしっかり褒めてくれた。これが決め手だったのだと思う。はっきり明確にそう感じていたわけではないが、「絵を描くと、みんな私を良いように見る」と本能で察していた。

超褒めて伸びるタイプじゃん!ウケるな!

こういう経緯で、私は「絵でいかに自分を良く見せるか」(および「いかに自分を良く見せるか」)に人生を全振りしてしまった。そんなこんなで、絵の経験値だけあげて(それでも拙い技術だが)、そのほかをゴミカスステータスのままにしてしまったとわけなのかもしれない…。それくらい、「絵を描く」は私の人生において大事な要素だった。それが手元から離れつつあるから、こんなにも焦っているのか。そうか、「絵を描く」は私の生命のねじまきパーツとして大きな存在だったのか…。

そう思うと、「絵を描く」をやめる未来があったとしても、それは「絵を描く」で動かしていた私の生命の部品が、また違う手段で動かされている、というだけなのかもしれない。なんだか、今だけはそう思える。明日にはこの気持ちは消えているかもしれないから、なんとも言えないが。

「絵を描く」はあくまで手段、目的ではないことを、少しだけ見誤っていたかもしれない。

ハ〜〜〜〜ここまで書き留めてやっとこ元気が出てきました。やっと寝られます。おやすみなさい。 いや寝るな!!!!できていないタスクが多すぎる!!!!おい!!!!やり残していることが多すぎるが!?!?!? 寝るな!!!!!

寝ます。もしここまで見てくださった方、いたら、ありがとうございます。

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