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とわずがたリ 御深草院二条 瀬戸内晴美訳 中世炎上 瀬戸内晴美著

昭和十三年に、宮内庁図書寮において、発見された[とわずがたり]筆者は鎌倉政権下、御深草院の女房二条、その十四歳から三十五年間に、及ぶ後宮生活や諸方への旅行の追懐を、記録したものです.作者十四歳の時に、御深草院の寵愛を得たことから書き始めている.彼女の生涯に、決定的な影響を及ぼした人、それよりも早く、豪華な衣裳を贈って、志を示す男のことも書かれた、後に太政大臣にまでになった、関東申次の西園寺實兼、深草院の同母弟、亀山院や異母弟の法親王とのことなどが、闊達に堂々と書いている、水色地表紙の冊子本で、五巻、他に所伝を聞かぬ、天下の孤本であるという、瀬戸内晴美氏は、[とわずがたり]を現代語訳しました.氏は、とわずがたりを、深く読み込み、原典が書かなかった、あるいは散逸したかもしれない、ところなどをも、探り情念溢れた、素晴らしい物語にしたのが、[中世炎上]です.

[中世炎上]中世鎌倉政権下、御深草帝の御代四歳で、践祚した、帝は十四歳になった、幼い頃からの、お気に入りのお側ずきは、四条大納言典侍近子、院に女御の入内することが、決まったそれが、生母の妹つまり叔母、十一歳年上で二十五歳、東二条院公子です.帝は気に入りません、すけだいと帝から、呼ばれている大納言典侍の近子は、何とかして機嫌よく、女御を迎えるように、説得するのです、帝は幼い時から添い寝は、近子と決まっていました.乳母や他の女官たちでは、決して寝ようとしなかったのです.帝は近子に思いを打ち明けて、院の初めての女人となります.御深草帝の心は、近子にあります、親代わりでもあった、女御の母西園寺貞子に、近子は呼ばれて女御と帝の、夜の様子を尋ねられます、その時に結婚を勧められます.相手は大納言源雅忠、村上天皇の皇子が、臣籍降下し源氏姓を名乗る家柄の人、この二人の間に生まれたのが二条です.すけだい近子を、いまだに忘れずにいる、御深草帝は夫源雅忠の、留守を見計らって、近子に会いに忍んで、きました.最後の別れのときに、約束をしたとうりに、そなたの産んだ娘をこの恋の形見として、手元で育てたい、産後の肥立の悪かった、近子は二条が、二歳の時に身まかりました.四歳の時に約束したのだからといって、退位し上皇になられた、御深草院の元に、乳母ともども引き取られ、手元で育てられる.まるで紫の上を育んだ光源氏の様に、紫の上は藤壺の宮の姪でしたが、二人は親子です.十四歳になった、美貌の二条のもとに数多の殿方の文が、届かないことはない、その中で豪華な衣裳を、贈ってきた人は西園寺實兼、恋を打ち明けられる.初恋の人となる、父雅忠に院は故人近子との、約束を果たすといい、二条と院は新枕を交わし、男女のなかになった、御深草院の寵愛をよそに、實兼との契りを重ねていた.二条は院の御子を授かりました.父雅忠は大層喜んだが、病を得て亡くなった.生まれたのは皇子、その後實兼の子を妊娠する.院は自分の御子と思われているので、御所にいるときは、院は我が子と言い、實兼との逢瀬では、我が子よと言う、二条は出産のために、里帰りして、そして、流行り病にかかってしまい、うつすといけないので、お見舞いなどを、断ることにして、ひきこもり女の子を、出産、当時實兼の北の方は、同じく女の子を、出産したが死産北の方も、難産にして、意識をなくしている間に、二条の産んだ女の子を、変わりにおいたのです.二条は死産としました.そのような時、先に産んだ若宮が、亡くなったと知らされた、二条は罰があたったと、悲しみのあまり床についた、御深草院の御所に戻った二条は、院の恋のとりもちをさせられる.院は蒲柳の質で、病を得ます、仁和寺の阿闍梨が参内し、祈禱をして平癒しました.この方は御深草院の異母弟、法親王です.それからは何かにつけて、仁和寺への使いは二条が言いつかります、ある時法親王から、思いを打ち明けられます.幼い時に寺院に入れられた、法親王は生涯の恋をします.紆余曲折があって、思いを遂げるが、院の知るところになる.生まれる法親王の御子のことを、世話をするとまで、言って下さったが、又、源氏が女三宮の不義を、知った時の苦しみが、今度という今度は骨身にしみてわかったよ、あの物語は真実を書いてある、などと言われたりもする.
同母弟の亀山院も、御深草院と同じく好色であります、政は院政であります、承久の乱以来、何事にも鎌倉の意向を、聞かなければならず、その申次を西園寺實兼がしておりますので、彼は宮中一の実力者であります.言ってみればおなごに、現を抜かすほかない、遊びも、催物も、源氏物語を、もほうしています.御深草院の次の亀山帝の御代の時に、蒙古が襲来しました.法親王との間に男の子が生まれましたが、すぐに院の命により、手放します.上皇御所に亀山院御幸を、迎える蹴鞠の時に、特に亀山院の目に、二条はに留まる.夜は両院共に、休むことになるが、二条は院のいいっつけにより、二人の間に寝るよう、命ぜられる、亀山院は言うのです.わたくしの所の女房は、何時でも差し上げているのに、どうして二条は許していただけないのですか.この様な会話をして遊ぶ、爛熟、頽廃を極めるのが、中世の宮廷生活、また太政大臣兼平も、二条に執心でそれも院が、進める.法親王との逢瀬は、続いています.法親王が病に倒れて、亡くなる、この時はやくも法親王の第二子を懐妊していた、法親王を弔うべく、東山に籠り男の子を産む、亀山院は相変わらず二条に、関心を寄せてる、ながい篭居は亀山院との、仲を疑われる種になった、二十六歳の時、突然御所を追放された.かねてより二条を、僭越なりと非難していた、正妃東二条院の命で、あることを知る.四歳から始まる二条の院の御所における生活が終わります.産んだ法親王の忘れ形見を、今度こそ手元で育て、訪れる實兼と静かに、過ごしていた、深草院の皇子んの東宮が、即位して伏見帝となる、西園寺實兼の大姫の、入内がきまり、二条は實兼に、頼まれて付き添います.立后の儀が終わり、二条は脚気にかかったという、名目で御所を抜け出した.以前から帰依している、東山の聖の手によって、髪をおろした.二条は三十一を迎えた秋二条の全てを知る、黒髪を箱に入れ手紙を.添えて實兼に届けさせた.正応二年三十二の時、二条は一人旅に出る、阿闍梨法親王の、面影が招くように、案内してくれる、鎌倉、浅草浅草寺、長野善光寺などを、巡り行く先々で歌を読み過ごして歩いた.正応四年石清水八幡宮に参った時、深草院とめぐりあうのです.お互いに姿は法体であります、それから二条はつと漂泊の旅に出る、實兼の二の姫瑛子が、亀山院に入内した、二条が生んだだけで、一夜もそだてていない娘.深草院が重病だと聞き、北山の西園寺邸に行き實兼の、手引きで枕辺に伺うことができた.翌日院は崩御、二条は院の野辺の送りをしようと、葬列の後に従って駆け出し、気が付いたら裸足であった、女の足弱ではついていけず、夜通し歩いて夜明けに、火葬場にたどり着いた時には、葬送のことは終わり、空しい煙の名残りが、のぼっいるばかり.中世炎上はここで終わります.作者は溢れるような共感と、濃密、艶麗に綴る最後の宮廷絵巻を、甦らせています.これ以後女官の、書いたものはないと思います.気に入りの物語です.中世炎上、中世の頽廃を、きわめる宮廷生活を覗ける、歴史絵巻です.両方比べて読むと趣が、あります.


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