広島カープ、謎の「ノーヒットノーラン男」・藤本和宏

広島カープの大瀬良大地が、NPB史上102度目、90人目のノーヒットノーランを達成した。

6月7日、本拠地・マツダスタジアムでの対千葉ロッテマリーンズ戦、先発した大瀬良大地は9回を投げ切り、129球、2奪三振、5四球ながら、無安打・無失点に抑えた。

9回表は、2死から2番・角中勝也、3番・髙部瑛斗の二人を続けて四球で出し、2死一、二塁のピンチとなったが、最後の打者となった4番のグレゴリー・ポランコをライトフライに打ち取り、快挙にたどり着いた。

カープの投手のノーヒットノーラン達成は、2012年4月6日、前田健太が横浜スタジアムでの対横浜DeNAベイスターズ戦で達成した試合にまでさかのぼるが、マツダスタジアムが2009年4月に開場して以来、公式戦でノーヒットノーランが達成された初のケースとなった。

広島カープ投手のノーヒットノーラン達成は大瀬良大地が5人目


広島カープの投手でノーヒットノーラン達成者を見ると、大瀬良大地は5人目となる。

外木場義郎(3度)
藤本和宏
佐々岡真司
前田健太
大瀬良大地

外木場義郎が完全試合1度を含み、沢村栄治と並ぶNPB史上最多タイとなる3度のノーヒットノーランを達成している。

外木場、佐々岡、マエケンはわかるけど、藤本和宏って誰?と、それなりに年配のカープファンでも思っただろう。

それもそのはず、藤本和宏は1971年の1年だけしか活躍していない。

プロ通算10勝で、この年、10勝、つまり、プロ生活で勝利投手になったのはこの1年だけ、しかも防御率1.75はセリーグトップで、最優秀防御率のタイトルを獲得した。

いわば、究極の「一発屋」である。

藤本和宏は一体、どんな投手だったのであろうか?


藤本和宏、西鉄にドラフト外で入団、わずか3年で解雇

藤本和宏は1947年生まれで山口県光市出身、地元の私立・聖光高校の野球部に入ったが、特に目立った球歴はなく、社会人野球の八幡製鐵光(現・日本製鐵)に進むとエース左腕へとのし上がった。
入団から1年後、1966年オフのドラフト外で西鉄に入団した。

「西鉄のことは、同じ山口県から池永(正明)さんが入るまで、そうくわしく知らなかった。プロ入りについては、周囲の反対もあった。しかしぼく自身野球をやるからにはどうしてもプロでやりたかったので、思いきって飛び込んだ。まず下半身を鍛え、早くプロで通用する投手になりたい」


しかし、藤本は入団早々、練習嫌いであることが露呈し、遊びのほうに夢中だったという。
藤本には左投手の軸足である右膝に水がたまるという持病があった。
それを理由に練習をさぼっては夜は中洲へと消えていった。
そのくせ、首脳陣を公然と批判。

「監督(中西太)は自分の使い方がわかっていない。自分は投げれば投げるほど力を発揮できるタイプなのに」と恨み節だった。

結局、藤本は西鉄に3年、在籍したが、一軍では10試合の登板で、1勝もできず、1969年オフに戦力外通告を受けた。
折しも、西鉄ライオンズに「黒い霧」事件の大激震が走っていた頃である。
球団から解雇を言い渡された時、藤本の捨てセリフは「バーテンでもやりますよ」だった。

しかし、藤本が荷物をまとめて実家に帰ると、すぐさま父親から勘当を言い渡された。

広島にテスト入団、いきなり二軍で9連続奪三振


やはり自分には野球しかない。
そう思った藤本は、西鉄でスカウトを務めていた重松通雄に頼み込み、広島カープの入団テストを受けることになった。

広島カープの監督・根本陸夫は藤本の投球を見て、ストレートの速さとカーブにほれ込んだ。
すぐさま藤本の入団が決まった。
「西鉄がなんで手離したのかわからん」と首をかしげたという。
カープは左投手不足に悩んでおり、首脳陣は藤本を左のワンポイントリリーフとして期待していた。
根本監督が出した条件はただ一つ、「減量」だった。
投手コーチの備前喜夫は「うちには秘密兵器がある」と話した。

1970年には二軍で早速、頭角を現した。
ウェスタンリーグで好投を続け、7月1日、地元・広島で古巣の西鉄と対戦すると、なんと9者連続奪三振。
これはいまだに破られていない記録だ。
さらに、藤本はウェスタンリーグで12勝4敗、最多勝投手になったのである。
一軍でも10試合に登板、0勝0敗、防御率3.46という成績だった。

一軍昇格、リリーフで7奪三振、プロ初勝利を完投で、その後、プロ初完封勝利


1971年のシーズンが始まると、藤本にさらなる転機が訪れた。
5月29日、本拠地・広島市民球場での対ヤクルトアトムズ戦、3失点した先発の大石弥太郎の後を、3回表から藤本がリリーフでマウンドに上がった。
すると、3番・福富、5番・外山、6番・溜池、7番・若松、8番・大矢、9番・会田、1番・武上の7人を次々と三振にうちとった。
打者9人から7奪三振、しかも6者連続奪三振、3回をパーフェクトリリーフしたのである。
この快刀乱麻の投球にカープ首脳陣は藤本を先発要員に廻すことを決めた。

6月6日、札幌円山球場でついに藤本に先発チャンスが廻ってきた。
対大洋ホエールズ戦で、このときは4回途中で2失点で降板した。
しかし、6月18日、今度は本拠地・広島市民球場で2度目の先発が廻った。
またも大洋戦であったが、坂井勝二と投げ合い、9回を投げ切り、1失点で完投勝利を挙げた。
これが藤本にとってプロ初完投勝利どころか、5年目にしてプロ初勝利。

藤本は試合後、報道陣に囲まれると、

「やっと男になりました」

広島市民球場のスタンドには苦労をかけた母親・アサ子さんが観に来ていた。

「いい親孝行ができました」と藤本は喜んだ。

この好投で、藤本は先発ローテーション入りを果たした。

6月29日、広島市民球場での中日ドラゴンズ戦、藤本は9回を投げ切り、許した安打はわずか3本、しかも、1-0で完封勝利を挙げた。
プロ初完投勝利の後は、プロ初完封勝利である。

たった1か月で、藤本和宏の運命は怒涛のように変わってしまったのである。

藤本和宏、カープ史上2人目のノーヒットノーラン達成

そして、藤本は4勝4敗で迎えた8月19日、広島市民球場の対中日戦、ダブルヘッダー第2試合で先発登板に臨んだ。

広島は2回、先発の渋谷幸春から無死満塁のチャンスをつくり、7番・捕手の水沼四郎がレフトスタンドに飛び込む満塁ホームランで先制すると、3回は5番・山本浩司(現・山本浩二)、6番・国貞泰汎の連続タイムリーで2点を追加し、6-0と大量リードを挙げた。
藤本は初回、2番の島谷金二にフルカウントから四球を与えたものの、その後は制球よく速球をコーナーに決め、中日打線を抑え込んだ。
気が付けば、中日打線は無安打のまま、試合は9回へ。
藤本は9回、先頭の高木守道を打ち取り、1死となったが、中日の水原茂監督は代打攻勢をかける。
右の代打・江島巧に対し、藤本はこの日、2つ目となる四球を出した。
続く打者はまたも右の代打、新宅洋志。
新宅はレフトファウルゾーンに飛球を打ち上げると、レフトの上垣内誠がキャッチして、さあ二死、と思ったところで、何を思ったか、一塁走者の江島が一塁を離れていた。
江島はアウトカウントを間違え、スリーアウトチェンジ、ゲームセットだと勘違いして、ベンチに戻りかけていたのである。
その間にレフトの上垣内からファーストの衣笠祥雄にボールが渡り、スリーアウト。
なんともあっけない幕切れで、藤本和宏はプロ野球史上45人目となる、ノーヒットノーランを達成した。
達成の瞬間、マウンドで藤本は小躍りして喜びを爆発させた。

9回を106球で投げ切り、9奪三振、2四球を与えたが、無安打、打者27人で終えた。

達成後、報道陣は色めきたった。
「西鉄から来た、あの藤本が?」と誰もが信じられないという顔をした。

藤本の年俸は100万円。2年前には西鉄を解雇になった男である。

試合後、球団は選手食堂にシャンパンを用意してくれた。
藤本のノーヒット・ノーラン達成を祝い、みなで乾杯した。

しかし、藤本はノーヒットノーランを達成した事実が自分でも信じられなかったのか、試合後は青白い顔面にけいれんがはしっていたという。

藤本に精気が戻ってきたのは、乾杯を終わって報道陣に囲まれたときだった。

「いやあ・・勝った。やった」

ここから藤本は饒舌に語り始めた。

「まさか、ボクが達成できるなんて思っていなかったですからね。
しかも最後のダブルプレーは相手走者のミスに助けられたので、あっけない幕切れでしたね」

―「何回ころから意識したか?」

「6回ごろからみんなにいわれたので、やっぱり7回頃からですね。打順も1番から始まるし、7、8回に気をつかいましたよ」

ー「西鉄時代はさっぱりだったのに、今年は見違えるようだね」

「西鉄時代は遊んでいたからね。もし、あのまま西鉄にいたら、いまの自分はなかっただろう」

根本監督は「(藤本は)やっと心技とも本物になった」とその成長を喜んだ。

この日、藤本の父親・安平さんは広島市民球場のネット裏で藤本の偉業を見守った。
勘当を言い渡した息子の快挙達成に目がしらを押さえていたが、涙があふれ出ていた。

藤本はつぶやいた。
「これでおやじにも胸を張って会える」

シーズン二桁勝利に最優秀防御率のタイトルを獲得

藤本和宏の快進撃はまだまだ続いた。

続く8月24日、広島市民球場での対大洋戦では味方の援護がなく勝ちを逃したが、10回を投げ、1失点。
さらに8月29日、神宮球場での対ヤクルト戦でもわずか1安打で完封勝利。

そして、シーズン終盤、セ・リーグで防御率トップを争う、大洋の坂井勝二と投げ合うことになった。

10月2日、本拠地・広島市民球場での対大洋戦、カープ打線はいきなり初回から坂井に襲い掛かり、4番の衣笠祥雄が27号3ランホームランを放って先制すると、坂井は5回を投げて4失点、自責点3で降板した。
一方の藤本は6回を投げて、被安打5、1失点ながら自責点はゼロ。
藤本はシーズン9勝目を挙げ、しかも防御率1.75で坂井の防御率1.85を追い抜き、セ・リーグの防御率ランキングでトップに立った。

カープはシーズン公式戦をあと1試合、残していた。
チームは62勝61敗で、順位はリーグ4位だが、すでに勝率5割を確保していた。
10月5日の最終戦、根本監督は先発に中2日の藤本を指名した。

藤本はこの時、9勝6敗であと1勝すれば、シーズン二桁勝利に手が届くのである。
根本監督はもし、藤本が打たれて、最優秀防御率のタイトルが危うくなれば、そこで交代する予定だったのだろう。
しかし、本拠地での対阪神戦、藤本は8回まで9奪三振、無失点とすいすい投げ進み、
完封をかけて9回のマウンドへ。
ところが、代打・藤田訓弘にソロホームラン一発を浴び、1点を失うと、2死から4番・田淵幸一を迎えたところで降板。
代わった2番手の大石弥太郎が田淵を三振に斬ってとり、藤本は10勝目を挙げた。

こうして藤本のプロ5年目が終わったが、初めて規定投球回に達し、10勝6敗、防御率1.71で堂々、セ・リーグの最優秀防御率のタイトルを獲得した。
カープの投手としては1968年の外木場義郎に続き、2人目であり、その後、カープの左腕では1988年の大野豊まで現れなかった。
この活躍で、オフには背番号も「17」に変更された。

戦力外からテスト生として這い上がり、投手としての栄誉を次々と手にした藤本は、

「自分の人生で、これほど感激に満ちた年が、これからもあるだろうか・・・」

と語ったというが、この不安はすぐさま的中することにあった。

突然の成績急降下、カープ退団後は消息不明に


藤本は翌年1972年の春季キャンプではベスト体重から1キロ増えるたびに、罰金1万円と首脳陣からおどされたが、それでも生来の太りやすい体質を克服できなかった。

シーズンが開幕すると、開幕3試合目の対大洋戦で先発したものの2回途中、被安打6、3四球、2失点で降板、その後は先発ローテーションからも外された。
その後、藤本の先発はダブルヘッダーなどのローテーションの谷間に限られ、しかも、いずれも早い回で交代させられた。
まだ予告先発がない時代で、左打者が並んだ打線にぶつける、いまでいう「ショートスターター」のような扱いであった。
その年、藤本は17試合に登板、先発は5試合だけで、1勝も挙げられず、防御率6.75と精彩を欠いた。
チームも最下位に転落し、根本監督はシーズン途中で辞任を余儀なくされた(その後、森永勝也が代行監督を務めた)。

藤本は翌1973年、新たな指揮官・別当薫監督の下、ほぼリリーフ専任で25試合に登板、防御率3.09で復活したが、1974年は一軍でわずか4試合に留まり、そのオフ、27歳を迎える前に、再び戦力外通告を受けた。
あの10勝目以降、3年で一度も勝利を手にすることはなかった。

1974年の秋、世間は、「ミスタープロ野球」長嶋茂雄の現役引退に騒然としていたが、藤本はひっそりと野球界から消えていった。
テスト生で入団して5年、ノーヒットノーランからわずか3年後の出来事であった。

藤本和宏の投手として生涯成績は、通算109試合に登板し、10勝10敗、防御率2.79。
10勝も、6完投も、3完封も、最優秀防御率のタイトルも、ノーヒットノーランも、すべて1971年の1シーズンで挙げたものだ。

藤本が通算で挙げた10勝というのは、NPBでノーヒットノーランを達成した投手90人の中で目下、下から数えて2番目であり、2000年にノーヒットノーランを達成した近鉄のナルシソ・エルビラが2001年オフに通算7勝で退団するまで最少記録であった。

その後、藤本は消息不明となり、カープのOB名簿でも所在は空欄となっていたという。

存命であれば、76歳。
どこかで、大瀬良大地の偉業達成を見聞きしているはずだ。
藤本和宏はいまどんな思いでいるのだろうか。


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