佐藤輝明(阪神)、史上初の新人4番デビュー満塁弾!


阪神タイガースの佐藤輝明が5月2日の広島戦(甲子園)で、プロ初の「4番・サード」で起用され、5回の第2打席、今季8号となる満塁ホームランを放った。

この日、開幕から「4番・サード」で出場し続けてきた大山悠輔は休養のため、先発を外れ、代わって、新人の佐藤輝明がチーム30試合目にして、プロ初の4番に座った。
タイガース第107代の4番打者の誕生である。

そして、2リーグ分裂後に、タイガースの「4番」の打順に新人選手が座るのは、佐藤で4人目であり(1リーグ時代を含めると10人目)、2017年に「4番」で12試合に先発出場した大山悠輔(第101代)以来となる。

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これまでもホームランを放つ度に話題をさらってきた佐藤だが、この日も、伝統あるタイガースで新人ながら初めて「4番」に座った重圧に負けなかった。特に5回の第3打席目、無死満塁のチャンスで廻り、広島先発の野村祐輔がカウント2-2からの5球目に投じた内角低めのチェンジアップ(129km/h)を掬い上げるようにとらえると、打球は甲子園のライトフェンスをはるかにオーバーし、無観客のスタンドに飛び込んで跳ね返った。
飛距離126メートルのホームラン、同時に試合をひっくり返す逆転弾。野村の失投ではあるが、決して簡単なボールではなかった。

佐藤の「4番デビュー」の結果は、三振、セカンドゴロ、ライトオーバーの満塁本塁打(4打点)、レフト前の安打(1打点)、レフトフライで5打数2安打、5打点をマーク。試合も、佐藤の満塁弾で勝ち越した阪神が7-3で勝利した。

佐藤の「4番デビュー弾」は、ホームランの飛距離もド派手だが、記録の上でも、華々しいものとなった。

NPBの新人野手が4番で先発出場した試合で、満塁ホームランを放ったのは、史上4人目であるが、さらに4番デビューの試合で放ったのは、佐藤輝明が史上初である。

さて、過去、新人の4番打者で満塁ホームランを放った3人はどのような顔ぶれだったのだろうか?

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大下弘

大下弘は台湾育ちで、終戦直後、1945年に明治大学から創設まもないセネタースに入団し、背番号「3」を着けると、戦後初の職業野球の興行試合となった東西対抗戦で、無名の新人ながらいきなり最優秀選手賞の大活躍を収め、1946年4月27日、戦後初の公式戦となった開幕戦の巨人戦(後楽園)に「3番・センター」で出場した。
大下は大きな期待を受けてのデビューにもかかわらず、開幕からホームランがなかなか出ず、三振の山を築いたが、6月2日、中部日本戦(西宮)に「4番・投手」として先発出場すると、3回二死満塁の場面で、左打席でライトに特大のホームランを放った。これが待望のプロ初本塁打となった。
大下はそのシーズン、448打席で20本塁打を放ち、シーズン本塁打記録を大幅に塗り替えると、堂々、戦後初のホームラン王に輝いた。
その年、8チームの公式戦425試合で生まれた211本の本塁打のうち、大下が一人で10%近くを占めたほど、断トツの長打力を誇った。
(なお、2020年はセ・パ両リーグの本塁打数は、360試合ずつで、セ・リーグは674本塁打、パ・リーグは614本塁打、計720試合で1288本塁打)
その後も、大下は美しい放物線を描くホームランと「青バットの大下」として、戦後の復興期に大衆の人気を集めた。
NPBで新人の左打者によるシーズン20本塁打は、1998年の高橋由伸(巨人)が19本塁打とあと1本まで迫ったが届かず、いまだに大下の記録は破られていない。

大岡虎雄

大岡虎雄は、1948年に社会人野球の強豪・八幡製鐵所から37歳で大映スターズに選手兼助監督で入団すると、1949年の開幕戦から「4番・ファースト」で出場した。
大岡は開幕2戦目の4月3日の大阪タイガース戦(後楽園)で初ホームランを放つと、右の主砲として豪快なスイングで本塁打と打点を量産し、11月8日、巨人戦(中日球場)で8回に無死満塁の場面でこの日、2本目となる26号ホームランを放った。その後、シーズン終了までホームランは不発に終わったが、最終戦で2打点を挙げて、111打点とした。これはいまだにNPB新人野手としてシーズン最多打点である。
大岡は翌年1950年から松竹ロビンスに移籍し、「水爆打線」の一員として前年を上回る34本塁打、2年連続100打点をマーク、松竹をセ・リーグ初の優勝チーム、日本シリーズ制覇に導く貢献をしたが、翌1951年のシーズン途中で現役引退した。

南村不可止(のちに改名して「侑広」)

南村不可止は、早稲田大学野球部出身で、右打ちの内野手として東京六大学リーグで首位打者を獲得すると、卒業後は三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に入行する傍ら、横浜金港クラブで野球を続け、32歳で新球団・西日本パイレーツに選手兼助監督で入団、背番号「1」を着けた。
南村は1950年の開幕戦に「3番・ファースト」で先発出場、その後、開幕1か月半で4番に座るようになり、6月26日の広島戦(札幌円山球場)では、「4番・セカンド」で先発出場すると、広島先発の長谷川良平から、5号となる満塁ホームランを放った。
その年、南村は内野のポジションを複数、守りながら、主軸を打ち、96試合で打率.300、11本塁打、34盗塁を記録した。翌年1951年から巨人に移籍し、背番号「1」を背負うと、その年の日本シリーズで大活躍し、打率.562で最高殊勲選手を受賞するなど、巨人の初の日本一に貢献した。その後も30代ながら俊足巧打のアベレージヒッターとしてベストナインの外野手部門を2度受賞し、1957年に40歳で引退した。

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