ソフトバンク・今宮健太、78年ぶり「1イニング2三塁打」

福岡ソフトバンクホークスの今宮健太が「歴史的」な猛打を見せた。

5月21日、みずほPayPayドームでの対楽天イーグルス戦、ソフトバンクが8-0で迎えた4回裏、無死三塁の場面で、2番の今宮が打席に入り、楽天先発のポンセから右中間を破る一打を放ち、タイムリー三塁打となった。
さらに今宮は打者一巡して回った1死満塁の場面で、楽天2番手の桜井周斗から今度は左中間へ走者一掃の3点タイムリー三塁打を放った。

ソフトバンクはこの回、打者13人、8安打の猛攻で一挙、10点を奪った。

結局、ソフトバンクは23安打、3本塁打で21得点を挙げ、21-0で圧勝した。
先発野手が全員安打を記録、うち7人がマルチヒット、6番・栗原陵矢がサイクル安打を逃したものの、2本塁打を含む、4安打を放ち、6打点をマーク、今宮は4打数3安打、4打点であった。

今宮健太のように、NPBの公式戦で一人の選手が1イニングで2本の三塁打を放ったのは78年ぶり、3人目の珍事であり、1950年の2リーグ分立後では初の快挙である。
今宮健太以前には、一リーグ時代の1946年、戦後初のシーズンに二人の選手が達成している。

金田正泰


金田正泰は左投げ左打ちの外野手で、旧制・平安中学から1942年、阪神入りすると、戦後の1946年には当時の日本記録となるリーグ最多の152安打、打率.347で首位打者のタイトルを獲得した。
大阪タイガースの打線は金田を筆頭に、呉昌征、土井垣武、藤村富美男、本堂保次など強打者を居並び、「ダイナマイト打線」と謳われた。

1946年7月25日、阪急西宮球場で行われた大阪タイガース対巨人戦、2番・レフトで先発した金田正泰は、大阪が4-2で迎えた5回裏、巨人先発の近藤貞雄から三塁打を放つと、打者一巡して迎えたこの回、2度目の打席で、今度は巨人2番手の中尾輝三からこの回、2本目となる三塁打を放った。
大阪はこの回、一挙7点を奪い、15-2で巨人を下したが、この日、金田は5打数4安打、3打点を挙げた。

金田はこの年、リーグ2位となる13三塁打を放ち、さらに1951年にはシーズン18三塁打を放って日本記録を樹立したが、2024年現在も破られていない。
金田は1953年、1954年と2年連続でリーグ最多三塁打をマークし、通算でも福本豊(114本)、毒島章一(106本)に次ぐNPB歴代3位となる通算103本の三塁打を記録している(日米通算ではイチローが119本でトップ)。

なお、金田正泰は1949年4月16日、後楽園球場での対南海ホークス戦で史上2人目となる「サイクルヒット」を達成している(当時はまだ「サイクルヒット」という認識はなかった)。
1957年に引退するまでベストナインに3度、選出され、通算1476試合に出場し、阪神歴代5位となる1527安打、55本塁打、568打点、打率.285、阪神歴代4位となる187盗塁。

金田は現役引退後、1960年から1961年のシーズン途中までと、1972年のシーズン途中から1974年までタイガースの監督を2度、務め、Aクラスに2度、押し上げている。
一方で、金田は現役時代からチーム内でトラブルに巻き込まれることが多く、現役時代は藤村富美男排斥事件の首謀者とされたり、2度目の監督時代には、投手の権藤正利との確執から権藤の退団時に暴行沙汰になったり、グラウンド外の出来事で話題を呼ぶこともあった。

杉浦清

杉浦清は右投げ右打ちの内野手で、愛知・中京商では遊撃手として活躍、1931年、1932年、1933年の全国中等学校優勝野球大会で3連覇に貢献すると、明治大学に入学、東京六大学野球リーグで1937年春季から1938年秋季に掛けて、同校初の4連覇に貢献した。
1939年に明治大学大学院に進学、高等文官試験受験の準備の傍ら、和歌山・海草中学の野球監督に就任すると、1939年夏の甲子園大会では、「5番・三塁手」で出場した真田重蔵や、エースの嶋清一が全試合で完封、しかも準決勝と決勝で2試合連続でノーヒットノーランの快投を見せる活躍で見事、全国優勝に導いた。
その後、大学院在学中に、明治大学野球部の監督に就任したが、応召を受け、戦地に赴いた。

戦後、復員した杉浦は、職業野球入りを決断した。
1946年に職業野球が再開する折り、32歳で中部日本(現在の中日ドラゴンズ)に入団して、遊撃手のレギュラーになると、竹内愛一監督の後を継いでシーズン途中の7月14日から兼任監督に就任した。
しかし、杉浦が就任直後に8月5日の阪急戦から9月1日の巨人戦にかけて、チームは15連敗を喫してしまった(現在も中日のチームワースト記録)。

9月7日、後楽園球場で行われた中部日本対ゴールドスター戦、5番・遊撃に入った兼任監督の杉浦清は、8-0で迎えた9回表、この日、4打席目を迎えると、ゴールドスターの2番手・江田孝から三塁打を放ち、さらに打者一巡で廻った5打席目も、江田から再び三塁打を放った。

この日はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、中部日本が16-1でゴールドスターに圧勝した。
だが、中部日本はこのシーズン、8チーム中、パシフィックと並ぶ最下位で終わった。

選手としての杉浦は遊撃の守備でも優れており、1948年には遊撃手として502補殺を記録すると、2018年に埼玉西武ライオンズの源田壮亮が526捕殺で記録を更新するまで、70年もの間、NPB記録であった。

杉浦は1949年以降は選手専任に戻り、1950年に36歳でキャリアハイとなるシーズン26本塁打を放ったもののオフに退団、その後は大洋ホエールズ、国鉄スワローズと渡り歩き、1952年には38歳で25本塁打を放ったが、1953年オフに現役を引退した。
1963年に中日に監督専任で復帰したものの、翌1964年に成績不振でシーズン途中で休養、辞任した。

杉浦清は選手として通算899試合に出場し、846安打、125本塁打、打率.255、兼任監督を含め2度の監督生活で通算5シーズン、524試合で指揮を執り、249勝264敗11引分、勝率.485であった。

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