阪神タイガース、セ・リーグ加盟後通算1万試合に到達、1950年開幕戦を振り返る


阪神タイガースが2リーグ分立後、公式戦通算10000試合目を迎えた。

阪神は5月23日、広島のマツダスタジアムで対広島戦を戦い、2-1で勝利した。これが大阪タイガースがセントラル・リーグに加盟した1950年、最初の公式戦から数えたちょうど1万試合目となった。

セ・リーグのチームで2リーグ分立後に通算10000試合に到達したのは阪神タイガースが初めてである。
1万試合の戦績は、4903勝4782敗315引分け、勝率.506となっている。

1万試合への道も、最初の1試合から始まった。

阪神タイガースの前身、大阪タイガースのセントラル・リーグ加盟後、最初の試合を振り返ってみよう。

1950年、波乱の船出となった「大阪タイガース」


大阪タイガースは1949年シーズン、65勝69敗で8チーム中、6位に沈んだ。
「ミスター・タイガース」こと主砲の藤村富美男が46本塁打、142打点という突出した成績を残し、打率.332はリーグ2位で惜しくも戦後初の三冠王を逃したが、もう一人のスターである別当薫も39本塁打、126打点で、破壊力のある打線は「ダイナマイト打線」と謳われた。

一方、タイガースの先発投手陣は、藤村隆男の16勝を筆頭に、若林忠志が15勝、梶岡忠義が13勝、新人の田宮謙次郎が11勝と、シーズン二けた勝利投手を4人も輩出したが、それ以外がコマ不足で、チーム防御率は8チーム中、7位と奮わなかった。

そして1949年シーズンオフ、職業野球は球界再編問題に揺れていた。
職業野球に加盟を希望する企業が増えてため、2リーグに分立し、拡大しようという構想である。
セントラル・リーグを主導するのは読売ジャイアンツを経営する読売新聞社で、一方、パシフィック・リーグを主導していたのは、職業野球への参入を目指す毎日新聞社である。
タイガースの親会社である阪神電鉄は、パシフィック・リーグへの加盟を誘われたものの、土壇場でセントラル・リーグへの加盟を決断した。

しかし、このことが、パシフィック・リーグ設立を主導してきた毎日新聞のメンツをつぶし、大いなる怒りを買った。
毎日新聞は新球団「毎日オリオンズ」を旗揚げすると、大阪タイガースでエース投手兼任監督の若林忠志、主力であった外野手の別当薫、捕手の土井垣武、二塁手の本堂保次、外野手の呉昌征らを引き抜き、オリオンズに移籍させてしまった。
大阪タイガースは監督兼エース、正捕手、二塁と中堅のセンターラインを根こそぎ奪われてしまったのである。

セントラル・リーグには、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズという職業野球創設からのチームに加え、松竹ロビンス、新球団である広島カープ、大洋ホエールズ、国鉄スワローズ、西日本パイレーツが加盟し、8チームでペナントを争うことになったたが、1リーグ時代に優勝を4度も経験している大阪タイガースが「最下位になるのではないか」とささやかれるほど、戦力は弱体化した。
大阪タイガースの監督にはかつて選手兼監督を務め、1940年に退団して以来、9年ぶりチーム復帰となった松木謙二郎が選手兼任監督で就任した。
松木はタイガースを退団以来、社会人野球を経て、戦地へ赴き、沖縄では戦闘で重傷を負いながらも生還して復員していた。

1950年3月10日、セントラル・リーグ最初のシーズン開幕

そして迎えた1950年シーズンの開幕戦。

1950年3月10日、セ・リーグ8球団は4球団ずつに分かれて、福岡の平和台球場と山口の下関球場で開幕戦を迎えることになった。
下関にはセ・リーグに加入した新球団の大洋ホエールズが創設されていた。

平和台球場には巨人、松竹、広島、下関球場には大洋、国鉄、中日、大阪が集まり、それぞれ変則ダブルヘッダー2試合づつが行われた。
下関球場は山口県向洋町の大畠練兵場跡地に、総工費2500万円で建設されて、1949年11月に開場した。総工費の資金のうち2000万円は市民にも出資を呼びかけ、出資者による組合団体を結成して運営されることになった。

セ・リーグの幕開けの試合は大洋ホエールズ対国鉄スワローズ戦で、大洋のエース・今西錬太郎が国鉄打線を2安打に完封、打っては6回に3番・大沢清と5番・平山菊二のタイムリー安打で2点を挙げて、2-0で大洋が勝利した。記念すべきセントラル・リーグの初の勝利チームは大洋ホエールズであった。


大阪タイガース、セ・リーグ加盟最初の開幕戦の先発投手は内山清

続く第2試合は大阪タイガース対中日ドラゴンズ。

大阪タイガースの先発は内山清であった。
内山は旧制・和歌山県立海南中学校(現・和歌山県立海南高等学校)から、社会人野球の海南日東紡(現・日東紡績)を経由し、1948年に大阪に入団した。

新人で迎えた1948年のシーズンは15試合に登板、2勝3敗、防御率4.50、2年目の1949年には30試合に登板、5勝5敗、防御率5.94という成績であった。

大阪はエース・若林忠志が引き抜きにあったものの、藤村隆男、梶岡忠義など実績のある投手がいた。
なぜ、開幕投手の大役に内山清が抜擢されたのだろうか?
松木謙二郎監督の意図は明らかにされていない。

一方の中日ドラゴンズの先発、開幕投手は清水秀雄
清水は1940年に明治大学を中退して、グレートリング(現・ソフトバンク)に入団すると、新人ながら開幕戦にいきなり先発し、初登板で完封勝利を達成した(その後もNPB史上5人しかいない快挙)。
そして、新人で11勝(23敗)を挙げ、チームトップ(リーグ11位)となる防御率1.75をマークした。

清水は荒れ球の豪速球と大きく曲がるカーブを駆使して、「三振か四球か」という投手で、11月16日、神戸市民球場での阪急戦では、1試合15奪三振のタイ記録をつくった(延長を含めれば17奪三振)。
ところが、1941年に出征し、中国戦線で小銃により手と腰に対する貫通銃創を受けてしまう。1942年に南海に復帰したものの、銃創の後遺症によりスローカーブ主体の軟投派に転向する羽目となった。
一方で、得意の打撃を活かし、投げない日には一塁手で出場するという「二刀流」であり、1944年には全35試合に出場している。
清水は1946年シーズン途中に中部日本(現・中日ドラゴンズ)に移籍すると、1947年にはシーズン23勝を挙げるなど、中日のエースとなり、1949年も12勝を挙げて、3年連続の二桁勝利をマークした(プロ通算260試合登板、103勝100敗、防御率2.69)。

百戦錬磨の清水と、発展途上の内山の投げ合いは実績と経験の差がでた。

中日は2回、4番・杉山悟の二塁打を足懸かりにして4安打で3点を先制、8回には1番・坪内の二塁打を皮切りにさらに2点を加えた。
中日先発の清水は大きく曲がるドロップ(カーブ)が冴えて完封勝利、大阪は清水の前にわずか4安打に抑えられ、4番の藤村富美男も4打数ノーヒットと振るわず、大阪は二塁すら踏めず、完敗となった。

大阪先発の内山はシュートとカーブで、一人で8回まで投げぬいたが、中日打線に9本のヒット、うち3本の二塁打を浴び、5失点であった。

大阪タイガースは開幕戦、黒星スタートとなったが、翌日3月11日、同じく下関市営球場で行われた大洋ホエールズ戦では先発に梶岡忠義を立て、12-4で勝利を収め、「セ・リーグ加盟後初勝利」を挙げた。
結局、1950年のシーズン、70勝67敗、4位で終えた。
毎日オリオンズに大量の主力選手を引き抜かれた割にはまずまずの成績と言えた。

どう見ても開幕投手には力不足の内山であったが、監督・松木謙二郎の抜擢は間違いではなかった。
内山は1950年シーズン、チームでは野崎泰一に次いで2番目に多い47試合に登板、22試合に先発登板し、防御率こそ4.46(リーグ21位)と平凡であったが、梶岡忠義と並び12勝(15敗)を挙げチームトップの勝ち頭へと成長したのである。

一方、内山が開幕戦で投げ合った清水秀雄は22試合登板で9勝(5敗)に終わり、オフに中日を退団した(1952年に大洋で復帰)。
たった1年で二人の立場は逆転した。

内山清、2年連続開幕投手も通算31勝で引退


すると、松木謙二郎監督は翌1951年もシーズンの開幕投手を内山に任せた。
今度は内山の実力で勝ち取った開幕投手である。
このシーズンは42試合に登板、途中からリリーフが主になったが、13試合に先発もし、10勝5敗、防御率3.34と2年連続シーズン二けた勝利をマークし、タイガースのAクラス入り(3位)に貢献した。

しかしながら、その後、内山は登板機会が減り、思うような投球ができなくなった。打撃を買われ、野手としてセカンドや外野手で出場したものの、
1954年のオフに現役を引退した。
内山清の投手としての通算成績は159試合に登板(うち先発49試合)、31勝29敗、防御率4.32であった。

内山清、第二の人生は高校野球監督、市立川口で斎藤雅樹を育成

内山は現役引退後の1957年、埼玉県川口市内でスポーツ用品店「ゼネラルスポーツ」を開いた。

内山は1958年に、埼玉県立川口工業高等学校の野球部監督に就任し、1960年に埼玉県川口商業高等学校(現・川口市立川口高等学校)の監督に就任した。

高校野球の監督就任前に内山は川口リトルリーグの事務局長を務めていた。
その縁で、市立川口高校に入学したのが、斎藤雅樹である。
斎藤は所属していたリトルリーグのかつてのチームメートと連絡を取り合い、「みんなで(内山が監督を務める)市立川口から甲子園に出よう」ということになったという。

斎藤は内山の指導を受け、才能を開花させた。
市立川口は1982年、3年生エース・斎藤雅樹を擁して夏の埼玉県大会決勝に進出するも熊谷高校と対戦し、1-3で敗退、甲子園出場はならなかった。

しかし、エース斎藤雅樹はその年の秋のドラフト会議で、読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団する。
斎藤はプロ入り後、サイドスローに転向すると、通算180勝、最多勝5回、沢村賞3回という「平成の大エース」の称号を得た。

斎藤雅樹は特に内山の古巣である阪神タイガースに強く、通算180勝(96敗)のうち、阪神戦で40勝(15敗)を挙げている。

内山清率いる市立川口は甲子園出場に3度挑戦も、成就せず



その後も、内山率いる市立川口は1988年、1997年と埼玉県大会の決勝に2度、進出するも、いずれも敗れ、甲子園出場はならなかった。

高校野球監督・内山清としての「甲子園への里帰り」は成就しなかった。

内山の教え子でプロ入りしたのは、斎藤雅樹に他に、1987年のドラフト会議で、エースの牛山晃一が阪神から6位指名、外野手の長岡学が近鉄バファローズから5位指名を受けて入団しているが、二人とも一軍公式戦出場なく引退している。

内山は結局、2005年春まで市立川口で監督を続け、勇退した。

斎藤雅樹は監督として内山清の人物評を、

「内山監督はあまり怒らず黙って見ていて、時にアドバイスをくれる感じで、楽しく野球をやれました。」

と述懐している。

内山清のもう一人の教え子である長井秀夫(現・国士舘大学野球部監督)は、内山の後を次いで2005年から市立川口高校の野球部監督を務め、ヤクルトの並木秀尊らを育成した。

内山清の野球「遺伝子」はいまも野球界に受け継がれている。



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