NPB最初の「1試合満塁ホームラン2本」飯島滋弥


福岡ソフトバンクホークスの山川穂高が、古巣相手に打棒を見せつけた。

山川穂高はFAでソフトバンクへ移籍後、初めてベルーナドームでの古巣・埼玉西武ライオンズとの公式戦の臨んだが、昨日の初戦こそ4打席で3三振と奮わなかったが、今日の2試合目、ついに爆発した。


山川穂高の1試合2本の満塁ホームランは、NPB史上3人目の快挙である。


では、NPBで最初に1試合2本の満塁ホームランを記録したのは誰か。

1951年10月5日、大映スターズの飯島滋弥である。

慶応義塾大学野球部の「百万ドルの内野陣」飯島滋弥


飯島滋弥は1919年10月11日、千葉県香取郡吉田村(現在の匝瑳市吉田)に生まれた。

旧制千葉中学校(現在の千葉県立千葉高校)に進むと野球部に入部し、1935年の夏の甲子園(第21回大会)に出場、2試合で10打数6安打、6打点、2盗塁と大暴れしたが、2回戦で敗退、1936年夏の甲子園(第22回大会)へ2度目の出場し、2試合で8打数4安打、2打点を記録したが、準々決勝で敗れた。

飯島は1937年、旧制・慶應義塾大学に進学すると、野球部に入部して一塁を守った。
当時の慶應野球部の内野陣は、宇野光雄(のちの国鉄スワローズ)・宮崎要(のちの西鉄ライオンズ選手・監督)・大館盈六(1941年にリーグ首位打者)で形成され、「百万ドルの内野陣」と謳われた。
飯島は4年生になると4番を打つようになった。

飯島は東京六大学リーグでは通算38試合に出場し、112打数25安打、打率.223、1本塁打という成績を残した。

飯島は卒業後、日立航空に勤めるが、視力と右膝が悪かったために軍隊に召集されなかったという。
しかし、これが飯島には幸いした。
飯島は戦争が終われば、職業野球が拡大するとみて、再び野球のフィールドに立つことをあきらめず、ひそかに鍛錬をしていたという。

28歳のオールドルーキー・飯島滋弥、主将に就任、開幕4番で出場

1945年、日本が終戦を迎えた翌1946年、飯島の読み通り、日本にも職業野球が復活することになったが、戦争による出征で多くの選手を失っていた。

飯島は27歳になっていたが、職業野球に参入する新球団「セネタース」に勧誘され、内野手として入団すると、背番号「4」をつけ、いきなり主将に就任した。
そして、1946年のシーズン開幕戦、飯島は、同じく新人の大下弘を差し置いて、「4番・ファースト」で出場した。
その年、”オールド・ルーキー”の飯島は103試合に出場すると、打率.312(リーグ7位)、12本塁打(同2位)、57打点、出塁率.426、OPS.921で、出塁率、OPSはリーグトップであった。特に選球眼のよさが際立っていた。
主に三番を打った左打者の大下弘は20本塁打を放って本塁打王になり、飯島と大下のセネタースの主軸二人が本塁打数のトップと2位を独占した。

しかし、翌1947年にセネタースの経営権が東急に移ってから、飯島は球団との折り合いが悪くなり、成績にも影を落とすようになった。
すると、1948年7月、セネタースは飯島を解雇した。
飯島はすぐさま金星スターズに移籍するものの、規定により残りのシーズンは公式戦に出場することができなかった。

1948年オフに、映画会社の大映が金星スターズを買収して、「大映スターズ」になると、翌1949年、飯島は打率.293(リーグ18位)、25本塁打(同9位)、84打点(同11位)と見事に復活を果たした。

職業野球が2リーグに分立した1950年、大映スターズはパ・リーグに籍を置いたが、飯島は外野手に転向、打率.322(リーグ6位)、77打点(同8位)、27本塁打(同3位)と好成績を残し、ベストナインの外野手部門で選出された。
初期の東京巨人軍(のちの読売ジャイアンツ)を率いた藤本定義監督率いる大映はリーグ3位に食い込んだ。

しかし、大映は1951年のシーズン、開幕から低迷してしまうことになる。
飯島を始め主力選手の多くが30代に差し掛かり成績が下り坂となり、7月のオールスター時点では最下位に沈んでいた。
その後、持ち直し、終盤に差し掛かったが、4位がやっとという成績だった。

1951年シーズン終盤、飯島滋弥の打棒が爆発

1951年のシーズンも残すところあと2試合となった10月5日、愛知県名古屋市にある大須(おおす)球場で行われた大映対阪急ブレーブスの12回戦。
大映の先発は、ヴィクトル・スタルヒン、阪急の先発は阿部八郎。
試合は消化試合であり、大須球場に集まった観衆はわずか1500人であった。

大映は1回表、阿部を攻め立ていきなり無死満塁のチャンスをつくった。
ここで大映の4番・ライト、飯島滋弥。
飯島はこのシーズン、ここまで打率.286、チーム唯一の二けた本塁打となる15本塁打を放っていたが、1週間ほど体調不良で試合を休み、これが復帰2戦目であった。

飯島はカウント3-2の後の6球目、真上に打ち上げて平凡なファウルフライとなったが、阪急捕手の山下健が落球してしまった。
これで命拾いした飯島は続く7球目、レフトスタンド席に飛び込む満塁本塁打(シーズン16号)を放って、大映が4点を先制した。

その後、飯島の2打席目はレフトライナー、第3打席目は四球を選んだ。
大映先発のスタルヒンは先制のリードをもらい、1回裏にエラーで1点を失ったが、それ以降は危なげなく投球を続け、試合は6回裏を終わって、大映が4-1とリードしていた。
7回表、大映の攻撃を迎えたところで、阪急はベテランの野口二郎がマウンドに上がった、
野口は32歳、戦前から「投打二刀流」として名を馳せた選手で、投手として236勝、打者としても800安打以上を放っていた。
(最終的には通算237勝、通算830安打)
しかし、野口も投手としてのピークをすぎ、この年はわずか4勝にとどまっていた。
消化試合だが、スタルヒンと野口二郎という、戦前を代表する投手の投げ合いとなった。

飯島滋弥と野口二郎、同級生対決

7回表、大映は野口の替わり端を攻め、無死一、二塁というチャンスをつくると、4番の飯島に第4打席目が廻ってきた。

マウンドの野口二郎は1920年1月生まれ、打席に立つ飯島滋弥は1919年10月生まれであり、奇しくも同級生である。
飯島は一足先に1937年に旧制・慶応義塾大学に進学しているが、野口は中京商で1937年の夏の甲子園の決勝で川上哲治(のちの巨人)を擁する熊本工業を下して、優勝、1938年の春センバツではノーヒットノーランを含む4試合連続完封勝利で優勝投手となっていた。
その後、1939年に野口は法政大学に進学したが、すぐに退学して、東京セネタースに入団した。
二人は東京六大学野球リーグではニアミスであったが、慶應を卒業した飯島はプロで「投打二刀流」で活躍する野口を横目で見ながら、虎視眈々とプロ入りの機会をうかがっていたのだ。

32歳になった飯島と野口との対決は、飯島に軍配が上がった。
飯島は野口から左中間へ3ランホームラン(シーズン17号)をたたき込み、7-1と阪急を突き放した。

飯島滋弥、この日、3発目のアーチは2本目のグランドスラム

さらに、野口に対する大映の猛攻は続いた。
打者一巡となり、再び2死満塁のチャンスで4番の飯島が打席に立った。
阪急は敗色濃厚な試合にこれ以上、投手をつぎ込みたくなかったのか、野口のプライドを重んじたのか、交代させない。
飯島は、手負いの野口からセンターへ特大の一発をたたき込んだ。
打球はなんと大須球場の場外まで飛び、桜の木に命中したという。
この日、3本目のアーチはシーズン18号、1回に続いて2本目の満塁本塁打だった。

さらに、飯島に6打席目が廻ったが今度は三振に倒れた。

試合は終わってみれば、大映が11-1で勝利、大映先発のスタルヒンは一人で投げぬき、完投勝利でシーズン6勝目を挙げた(通算269勝目)。

この試合で、飯島滋弥は5打数3安打、3本塁打を放ったが、同時に「1試合2本の満塁本塁打」、「1試合11打点」、「1イニング7打点」のプロ野球記録を樹立した。

なお、大須球場だがNPBの公式戦は翌1952年はわずか1試合しか開催されず、翌1952年8月23日、大映対阪急戦をもって最後となった。
翌1953年1月、大須球場は経営難により、開場からわずか5年、公式戦は30試合が行われただけで閉鎖が決定された。
最後の試合で、ホームランは1本も出なかったため、飯島滋弥が野口二郎から放った満塁本塁打が、大須球場で63本目、最後のホームランとなった。

その後、NPB公式戦での「1試合2本の満塁ホームラン」は、2006年4月30日、読売ジャイアンツの二岡智宏が東京ドームでの中日ドラゴンズ戦で、2打席連続でグランドスラムを放つまで、誰も現れなかった。

「1イニング7打点」は1993年5月19日、神宮球場で行われたヤクルトスワローズ対広島カープ戦で、ヤクルトの池山隆寛が3回裏に3ラン本塁打と満塁本塁打を放ち、NPB史上14人目の「1イニング2本塁打」を記録して並ばれた(この試合は延長14回の末、ヤクルトが17-16でサヨナラ勝利した)。

そして、それでも飯島の1試合2本の満塁本塁打、1イニング2本塁打、1イニング7打点は73年たってもNPBタイ記録で、1試合11打点の記録はNPBでは未だ破られていない。

この1951年のシーズン、飯島は85試合に出場すると、18本塁打(リーグ2位)、打率.294(同9位)、63打点(同5位)で、パ・リーグのベストナインに外野手部門で2年連続で選ばれた。

そして、飯島は翌1952年、打率.336で自身初の首位打者を獲得、3年連続のベストナインを受賞したが、そのシーズンが打者としてのクライマックスだった。
1955年、南海ホークスに移籍して現役を終えた。
実働10年で953試合、901安打、115本塁打、484打点、打率.282。

「禍福は糾える縄の如し」という言葉が当てはまる、飯島滋弥の野球人生だった。

飯島滋弥が大杉勝男に送った名言「月に向かって打て」

飯島は引退後、テレビでの野球解説者を務めた後、古巣・東映フライヤーズの打撃コーチ、監督代理を務め、最後は二軍監督としてユニフォームを脱いだ。

東映の打撃コーチを務めていた1968年、9月6日の後楽園球場での阪急戦、
不振にあえぐ教え子の大杉勝男が打席に向かう時に、飯島は一塁コーチボックスから大杉に近づいて、後楽園球場の夜空に浮かぶ中秋の名月を指さし、こう言った。

「スギ、あの月に向かって打て」

大杉はその年、初のシーズン30本塁打に到達すると、1970年に44本塁打、129打点で、自身初の本塁打王と打点王を獲得した。

しかし、飯島はその知らせを知る前に、その年の8月9日、50歳で生涯を終えた。胃がんであった。
飯島は亡くなる前日も後楽園球場に姿を見せていたという。

飯島が在籍した大映スターズは1957年に高橋ユニオンズを合併して、大映ユニオンズと改名したが、さらに1958年のシーズン開幕直前に、毎日オリオンズと合併し、毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)となった。
存続会社が旧・毎日オリオンズの運営会社であったため、大映も、高橋のチーム記録も引き継がれてはいない。

しかし、飯島滋弥の1試合2本の満塁ホームラン、1イニング7打点、1試合11打点という記録は、「月に向かって打て」という名言と共にいまも色褪せない。

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