【2023年8月31日】アクーニャJr.、MLB史上初の「30本塁打・60盗塁」に到達、NPBで最も近づいた男は?

アトランタ・ブレーブスのロナルド・アクーニャJr.がMLBの歴史に名を刻んだ。

8月31日(現地時間)、ドジャースタジアムで行われた対ロサンゼルス・ドジャース戦で、アクーニャJr.は「1番・ライト」で先発出場し、2回の打席で30号となる満塁ホームランを放ってMLB史上初となる「30本塁打・60盗塁」を達成した。

アクーニャJr.は2019年のシーズンに41本塁打と37盗塁を記録しており、同一シーズンに30本塁打と30盗塁を達成した選手はMLBで14人目だが、25歳のシーズンまでに2度も記録したのはMLB初の快挙となった。

これまで、「30本塁打・60盗塁」にもっとも近づいたのは、1990年のバリー・ボンズ(当時、ピッツバーグ・パイレーツ)で33本塁打・52盗塁であり、「30本塁打・50盗塁」にあと1歩、届かなかったのが、2012年のマイク・トラウト(ロサンゼルス・エンゼルス)で30本塁打・49盗塁をマークした。アクーニャJr.はこの二人を大きく上回ったことになる。


今季のMLBではルール改正で盗塁が激増

MLBでは、今季からルール改正されたものがある。
そのルール改正の一つは、ベースのサイズが大きくなったことである。
これまでベースの各辺は15インチ(38.10cm)だったが、それぞれ3インチ(7.62cm)ほど大きくなり、18インチ(45.72cm)となった。
ベースを大きくした理由のひとつは、走者と野手が交錯するリスクを減らすためで、選手の故障を減らす目的が大きかったようだが、塁間の距離が4.5インチ(11.43cm)ほど近くなったことにより、明らかに走者が有利になったといえる。

もう一つのルール改正は、主に試合時間の短縮を狙ったもので、ピッチクロックの導入とセットで決められた、牽制球の制限である。攻撃チームが出塁した場合、守備チームの投手は1打席の間に2回までは牽制球を投げることができるが、3回めの牽制球を投じて走者をアウトにできなければ自動的にひとつの進塁を与えることになる。要するに投手は1打席につき実質、2回までしか、牽制球を投じることができない(なお、走者が進塁した場合は、1打席の間であっても、牽制球の回数はリセットされる)。

このルール改正によって、今季のMLBでは盗塁が激増しているのだ。
MLBの1チーム当りの1試合の盗塁数は2022年は0.52個、2021年は0.46個であったが、これが今季は0.7個にまで増えているという。
実質、4割増だ。
アクーニャJr.の偉業達成にはこうした背景もある。

では、NPBではどうだろうか?

NPBにおける「30本塁打・30盗塁」到達者

NPBでは、「30本塁打・30盗塁」を達成しているのは12人、18度ある。
そのうち、「打率3割」も加えた「トリプルスリー」は10人、12度である。

では、同一シーズンで「30本塁打・60盗塁」にもっとも近づいたのは誰だろうか。

1990年の秋山幸二(西武ライオンズ)の35本塁打・51盗塁である。

秋山幸二、23歳で40本塁打、25歳で30本塁打・30盗塁に到達

秋山幸二は1980年オフ、ドラフト外で西武ライオンズに入団。
当初は三塁手として育成され、入団5年目の1985年、レギュラーに定着すると、オールスターゲームに初めて選出され、全試合に出場、23歳で王貞治と並ぶNPB史上最年少での40本塁打に到達して、この年入団した清原和博と共に、長距離砲として大ブレイクを果たした。
森祗晶監督が監督に就任した1986年、2年連続となるシーズン40本塁打、自身初となる100打点を突破(41本塁打・115打点)、日本一に貢献すると、その1986年オフ、背番号「1」に変更した。
翌1987年、本格的に外野手に転向、「3番・センター」に固定され、5月21日に日本人最速となるNPB通算100本塁打を達成し、3年連続40本塁打をクリアし、43本塁打で自身初の本塁打王のタイトルを獲得した。
さらにNPB史上初の「40本塁打・40盗塁」も期待されたが、最終的には38盗塁で達成はならなかった。

秋山幸二、トリプルスリーの翌年、30本塁打・50盗塁を達成

秋山は前年の1989年、プロ9年目を迎え5年連続全試合出場を果たし、自身初となる打率3割を記録、打率.301、31本塁打、31盗塁で、NPB史上5人目の「トリプルスリー」を達成した。
そして、プロ10年目を迎えた1990年、6年連続となる全試合出場を果たし、打率.256、35本塁打、91打点、51盗塁を記録、NPB史上初の「30本塁打・50盗塁」を達成すると同時に、NPB史上初となる「本塁打王受賞経験者による盗塁王」になった。
西武は日本シリーズで読売ジャイアンツを4連勝で下し、2年ぶりに日本一となった。

秋山の推定年俸は当時、8,400万円で、この活躍により1億円プレーヤーになるかと期待されたものの、1,500万円アップの9,800万円の金額提示を受けるに留まった。当然、秋山はこの提示を不服として保留したものの、最終的にはサインした。

一方、清原和博は打率.307、37本塁打、94打点で、打撃タイトルは逃したものの、そのオフの契約更改では当時、NPB史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなったが、秋山と対照的であった。

秋山の次に「30本塁打・50盗塁」に最も近づいたのは2001年の井口資仁

NPBではその後、30本塁打と50盗塁を同時に達成した選手は現れず、2001年、ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で秋山幸二の同僚であった井口資仁が30本塁打・44盗塁をマークしたのが最高である。
井口資仁は青山学院大学から1996年のドラフト会議でダイエーを逆指名して入団、この年、5年目・26歳で迎えたが、自身初のシーズン30本塁打に到達、これまた自身初となる盗塁王を獲得した。

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