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私と北条政子

結構前になってしまったが、こっそり田中泰延さんの企画に応募していた。その中の一部を抜粋して、残しておこうと思う。

歴史に疎い私が1週間でなんとか見つけた北条政子。
読んだあなたが、何かふと思いつくきっかけになれると嬉しい。

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ネットで「北条政子」について調べてみると、「悪女」「女傑」「強い女」。とても誉め言葉とは言い難い言葉が並ぶ一方で、実は優しい女性だったという意見もあることがわかった。そうやって調べているうちに、遅ればせながら「北条政子」が1人の人間なんだということに思い至る。

私は、人に興味がある。その人がどういう経験をして、どういう価値観を得たのか、何時間でも話を聞いていられる程度には、興味の度合いは強い。共感性が高いのか、話を聞いていると自分も体験したような感覚になるため、経験を分けてもらっているような気持ちになれるのかもしれない。

そんな私にとって、北条政子を人だと認識できたことは大きかった。

俄然やる気が出た私は、まず、全体像を把握するため、史実を探した。案の定ネットでは出展の不明確な情報ばかりだったので、翌日の仕事帰りに図書館に行った。

図書検索で本をいくつかピックアップしてみるものの、本は情報量が多すぎて、歴史に疎い私には、扱うのが難しそうに見えた。そこで目をつけたのが、児童書の歴史人物事典だ。小学生に混ざりながら、数冊の事典で北条政子のページを読んで、やっとおぼろげに彼女のやってきたことを知ることができた。

事典のコピーと、『吾妻鏡』の現代語訳や大学教授の書いた北条政子の本を資料としていくつか持ち帰り、そこからYoutubeで色々な解説動画を見漁った。

何故、動画を選んだのか。

その理由は、対話形式の方が、自分の意見をもちやすいと考えたからだった。

私は机に向かって勉強するのが、元来あまり好きではない。一度火が付くと、寝食も忘れてのめりこむが、そのきっかけは人との対話から生まれることが多かった。よく、本が自分の世界を広げてくれると言うが、私は人に世界を広げてもらってきたと言えると思う。

だから、Youtubeでその人の解釈を聞きながら、自分が感じたちょっとした違和感や、疑問に思ったことを書き出して深めていくという手法をとったのだ。

大河の影響で、解説動画は思ったよりも多かった。しかし、どの動画も扱っている事実はほとんど変わらないということに気付いた。でも、動画を見終えた時に浮かぶ政子像は、それぞれ少しずつ異なっている。

これが俗にいう、「諸説あり」の由縁なのかもしれない。たくさんの研究者たちが、色々な文献や資料から彼女の言動を想像し、独自に解釈して「北条政子」という人物像を作り上げてきたのが、私たちが学んだ「歴史」という教科なのかもしれないと。

そう考えると、真実は誰にも分らないのだから、多少事実と異なっていたとしても、私が好きに解釈してもいいのではないか、と気持ちが楽になった。

前置きが長くなったが、ここから、この1週間で私の中に生まれた、北条政子という存在について述べてみたいと思う。

北条政子は強い女だと言われるが、実は優しい人だったのではないかと言われている。私はその印象のギャップを知った時、私と彼女は似ているかもしれない、とハッとした。

私も、対外的には強くて怖い人だと言われることが多いが、距離が近くなると優しくて母親のような人だと言われるようになる。私が怖がられる理由は、言うべきことは言うことと、必要だと思えば、ドライな判断もできるからなのだそう。特にビジネスシーンなどの論理的な対話の場面だけを見た人は、私を怖くてドライな人だと感じることが多い。政子もそうだったのではないか、と思ったのだ。

彼女が悪女である裏付けとして、自分の息子を見殺しにして孫を出家させたり、頼家の乳母の一族を滅亡させたりしたことをあげ、天下をとりたいという自分の欲望ために手段を選ばなかった、という結論に持って行っているのをよく見る。

しかし、その天下をとりたかったのが政子ではなく、夫である源頼朝だったとしたら、少し様相が変わってくるのではないだろうか。

政子の人生は、頼朝と出会ったことで動き始める。2人は、戦に敗れて都を追われた源家の嫡男と、そのお目付け役の娘という間柄。当時は「平家の人間でなければ人ではない」という言葉があったような時代であり、頼朝はどちらかというと罪人に近しいような存在だったはずだ。

現に、2人の関係に気付いた政子の父は、政子を幽閉して政略結婚の話を急いで進めたという。ここで政子の意志の強さを裏付けるエピソードとして、脱走して山を越えて頼朝の元へ走るというものがあるのだが、実は、私にもそういう経験がある。

それは、数年前に遡る。私はドラマの脚本を書きたいという夢のため、大学を卒業してすぐに上京したかったが、両親に反対されて諦めた。それには様々な理由があり、当時の私は自分の身体のことや家族のことを色々考えた上で、納得して決断したつもりだった。でも、今考えれば、その選択をする勇気がなかっただけだったのかもしれない。結局、それから4年経っても想いは消えず、遂に私は上京を決めた。また反対されるとわかっていた私は、こっそり仕事や住居を決め、ある日突然「私、来月から東京に行くから」と言って家を出た。

この話をすると、誰もが私のことを強いというが、私は自分を強いと思ったことがない。ただ、自分が見つけた夢を追いかけてみたいという想いに、素直に従っただけなのだ。彼女もまた、他意はなく、純粋に頼朝という愛する人と離れたくないがために、走っただけなのではないだろうか。

平清盛の病死後、政子の支えもあって頼朝はついに天下を治める。これについても、悩む頼朝に政子が発破をかけたという説があるようだが、その感情は当たり前のことだと思う。

自分が駆け落ち同然のことまでするほど愛した男が叶えたい夢を、一緒に叶えたいと思って何が悪いのだろうか。少なくとも、私が政子の立場だったら、同じように発破をかけたはずだ。

政子は天下に興味があったから、頼朝に近づいたという説もあるそうだが、幽閉された先から脱走して頼朝を手に入れるような人が、天下をとりたいという想いを持ったまま、田舎でのんびり暮らしていたとは到底思えない。それならば、頼朝に出会ったことで生まれた夢だと考える方が自然なように思う。

そんな頼朝が天下をとりたがった理由、それは「武家政権を作る」ためだと言われている。当時の武士は皇族の用心棒のようなもので、使役される立場だった。今でいうと、働き方改革が叫ばれる前の平社員のようなもので、上司からの無理難題や呼び出しにいつでも応えなくてはいけない立場だったようだ。家族があっても皇族からの指令が出れば、それを断る術がないという世の中を変えたい、それが頼朝の願いだった。

しかし、頼朝が夢半ばで倒れてしまった後を継いだ、長男の頼家は、乳母に感化され、頼朝が築き上げてきたものをどんどん変えようとした。頼朝が目指した世界からかけ離れていることに危機感を覚えた政子は、武家政権を存続させるという目的のために、蛇の道を選ぶしかなかったのかもしれない。

政子が出家した時、曼荼羅の梵字を自らの髪で刺しゅうしたと言われている。それは、生涯頼朝だけを愛し、その愛する人の守りたかった世界を、自分が守っていこうという決意の表れだったのではないだろうか。

そんな強い想いを持った政子だったからこそ、次男実朝の亡き後、ばらばらになりかけた御家人たちの心をつなぎとめ、19万もの兵を動かすことができたのだと思う。もちろん、頼朝が生前、それだけ強く恩義を感じてもらえるような働きをしていたのが前提にあるが、その頼朝の願った世界を何とか作り上げようと戦う政子の想いが、御家人たちに伝染したのだと私は感じた。そうでなければ、当時、武士にとって絶対の存在だった朝廷に、リーダー不在のまま立ち向かうなんてことはできなかったと思う。

このことから、北条政子は、愛情深く、責任感の強い、頼朝の良き妻であったと私は考える。

そんな政子と私の違いは、意志の強さだ。

私はずっと、決めることから逃げて生きてきたように感じている。それは、自分の選択に自信がなかったからだ。私には、どうしても正解を探そうとしてしまう悪い癖がある。しかし今回、政子の生涯を共に考えるうちに、自分の思い通りにならないのが人生なのかもしれないと思った。

人生は選択の連続である。

きっと政子も、頼朝と結婚した時には、まさか自分にこんな人生が待っているなんて夢にも思っていなかったはずだ。将軍になった頼朝の隣で、子どもたちに囲まれた楽しい生活を送ることを夢見ていたかもしれない。それでも彼女は、たくさんの選択を迫られ、たくさんのものを失いながら、その後600年間続く武家政権を作り上げた。

そのせいで、後の世界で悪女だなんだと言われたとしても、自分が「これでよかった」と思えるような人生であれば、それが自分にとっての正解なんだと思う。

誰が何と言おうが、自分がこれと決めたものをしっかり全うする。私は、そういう人生を歩んだ北条政子という女性から、その難しさと尊さを学んだ。


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