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「信じる」が全ての始まり

他人に「私は貴方のことを信じてたのに・・・」と言われた経験は、必ずといってよいほど皆さん一度はあるかも知れない。私は最近も、そんな経験をした。何とも言えない苦い感覚。これを振り返って考察してみたい。

日本最強のハラスメント言葉だ。

「信じてたのに・・・」の「・・・」に隠れてるのは、「貴方は私の信頼を裏切った」という恨み節であろう。つまりは、「信じてたのに」を明け透けにストレートに翻訳するならば、『お前は裏切り者の酷い奴だ』である。目の前の相手に、純度100% お前の方が悪いと非難する人格攻撃である。

ところが、この「信じてたのに・・・」はパッと見、綺麗めに映る。そこがキモであり、口にする方も何の良心の呵責も感じないし、聞いた方もハラスメント受けた感を感じない。ハラスメント感をステルスできる、最強のハラスメント言葉なのだ。

そうなる背景的事情を考えてみるに、「AがBを信じる」という行為が、「AがBの善良さとか一貫性とか『良きもの』に賭けて、BにAが自分の身を預ける」というニュアンスを持っているからだろう。そこから、信じていたのが裏切られたというのは、Aから良きものを期待されていたBが悪いことをして、身を預けてくれてたAに危険や不利益をもたらした、という構図が想起されるからではないか、と思う。

いやいや、「信じる」って自己責任だから・・・

ただ、忘れてはいけない。「信じる」ってのは自己責任だということを。そして、「信じる」というのは賭けであり先行投資なのであるということを。

そもそも、誰もその理屈を疑わない定理・真実については、信じるとか信じないとかの次元にならない。「万有引力の法則を信じます」と言ったところで、ちっとも格好良くない。皆が当たり前だと思うことについて、信を問われることがない。

信じる信じないが俎上に乗る時というのは、確証がない状況だ。Y字路にきて、右へ行くのがいいか、左へ行くのがいいか、分からない。先行してここを行った人の事例も分からないし、最近の大雨で道がどうなっちゃってるかも分からない。そんな時に、「俺は右の可能性を信じる」というのが信じるだ。万人が納得いくだけの十分な確証を確保できないけれども、断片的な情報や過去の経験値などを基にして、反対受ける覚悟の元に何かに賭ける行為が「信じる」ということ。

もし仮に、AがBを信じて裏切られたとすると、それはAの失敗である。最初からBがAを騙そうとしてたのであれば、その魂胆を見抜けなかったAの未熟さが改善すべき点だ。もしBが欺す意図もなくAの期待に沿わなかったなら、人の性格や特質に対するAの見る目の無さが改善点だ。もしBが途中で翻意したんだとすると、自分の期待に応えてもらうことがBにとって一番でなくなる状況を見逃したAの注意不足と行動不足が改善点になる。つまり、どこまで行っても、信じた側のAに反省点がある。

つまり、「あなたを信じてる」と他人に言われた時には、内心「私を信じるのは勝手だけど自己責任でお願いね。いつもあなたの期待を正確に先読みして、期待通りに行動できるなんて思ったら大間違いだからね」と思っておくのがちょうどいい。逆に自分が誰かを信じる気持ちになったら、「たとえ期待してないことを相手がしたとしても、その結果も受け止めるぞ」という覚悟の元に黙って信じればいい。

信はそんなに口にするな。

信じるというのは、前述の通り、誰がみてもこうだという確証は無い中で何かに賭ける行為だ。だから、「私はこれを信じている」「私はそれも信じている」「私はあっちも信じている」と頻繁に表明する人は、危なっかしいヤバい人だと思われるのがオチだ。

更に言えば、これは毒親なんかによく見られることだが、「信じてる」という都合の良いロープで相手を縛る道具にしてるのが見え見えな人もいる。特に親とか伴侶など、極めて親しくて関係性を別者と簡単に取っ替えられない人に「あなたを信じてる」と言われると、その期待に応えたくなるのが当然の人情だ。それを利用して、相手に「信じてる」を頻繁に聴かせることによって、相手を都合よく操作しようとする輩も結構多い。

相手に「信じてる」を聴かせる行為というのは、言う人にとってとても都合の良いもので、投資対効果の高い行動なのだ。何しろ、「期待に応えたい」という相手の気持ちを利用することで、自分の期待を察してそれにマッチする行動に仕向けることができる。短い言葉一つだけで。金も心も配らなくて済む。しかも、「信じられたのに期待を裏切るのは、裏切った者の方が極悪非道だ」という道徳の力を利用して、自動メンテが効き易い。だから、相手のことを観察し続けたり、場面に応じたメンテナンスをし続けなくても、相手の側が自分の期待に一方的に沿って来続けることを期待できる。

仮に、期待に応えようと相手がやってくれたことが意に沿わなかったら、「私はそんなことを期待してたわけじゃない。がっかりだ」とか言えば済むのだ。期待に応えても応えなくても、結果が気に喰うか喰わないかで言うことを変えるだけで、全部相手のせいにできてしまう。

ということで、楽して自分の都合に良く他人を操縦しようとする人にとって、「信じてる」ほど都合の良い言葉はない、というものだ。

長くなったが、私はそう思っているので、他人に対して「信じてる」とか簡単に口にする人間を見ると、「うわー、こいつは楽して他人や環境を操縦しようとする、恐ろしいご都合主義者なんだろうな」と思ってしまう。そういう意味でも、人前で簡単に「信じてる」などと口にしてはいけない。

一人で勝手に信じる。必要なのは資源配り。

「私はこの人を信じる」と決めたら、それは相手に聞かせてはいけない。だって、聞いた相手は、それを嬉しく思う一方で、プレッシャーにも感じるだろう。束縛だ。迷う時、「あれ、これは信じてくれたあの人の意に本当に沿ってるかな?違うかな?」と迷いを深めてしまう。相手に聞かせた途端、そのことが相手から「のびのびと振る舞う」自由を損ねていくのだ。

だから、信じた相手には「信じてるよ」なんて言葉掛けは百害あって一理なし。それよりは、頻繁に目を配り、心配りをし、必要だと思う時には人を紹介してあげたり金を出してあげたりと資源配りをすれば良い。それで、信じた相手が思いを遂げることを、根気よく見守りアシストしてあげればいいのだ。

第一、人間というのは多面的で複雑なので、信じてるから常に相手は自分の考えや都合に沿うはずだ、などということはあり得ない。そんなことを期待している時点で、世の中甘く見ている。時には、「えっ、なんでこんなことしちゃったの!?」と驚かされるのも覚悟で、「でも、俺はあなたを信じてる」と信じ続ける覚悟が持てないならば、人を簡単に信じてはいけない。

ただ、私は知っている。「あなたを信じてる」などと簡単に人に信を口にする人は、心の底は本当は人を信じていない。信じていないくせに、楽して他人を都合よく動かそうと思って、言葉を道具として使っているに過ぎないと。だから、「信じてたのに・・・」と言われても傷つかない。「あらー、あなたの安い言葉遣い戦略が失敗しちゃったねぇ」か、「もう少し信じるってことを深く見つめ直さないと、何度でも裏切られると思うよ」と感じるかである。

「踏み絵」をどうするか、それが問題だ。

報道などで、新興主教とかカルトにハマった人の言動など見聞きして、「ありゃー、なんだかとんでもな物にハマっとるなぁ」と感じた経験はおありだろう。平たく言えば、あらゆる「信じる」はそういうものだと言える。

なにしろ、万人が説明聞いて「確かに!」となるだけの理屈や材料を提示できない、でもこれだ!と覚悟決めることを「信じる」というのだから。これを逆に言い換えると、「信じる」を他人に聞かせてしまうと、「あれ、こいつオカシナものにハマっとるんか?」「病んでしまったのかな?」などと思われるのがオチだということ。

かくいう私は、結構信心深い人間だと自己評価している(宗教とかの話ではないが)。ただ、信心は外にペラペラと表明するものではない、とも思っている。信じていることは大概、常識に反する部分を持っていたりするので、常識人に溢れる世間で表明することは、自ら標的になりにいくような要素を持っているからだ。よくよく状況を見て安全性とリスク管理状況を見てからでないと、迂闊に提示できるものではない。

かつて江戸時代初期に、隠れキリシタンを炙り出すために「踏み絵」を強いられた史実があると思うが、踏み絵を要求されて踏むか踏まぬかは、よく私はシミュレーションする。キリシタンでなくとも、キリストの像以外のもので、現実世界で頻繁に踏み絵は行われている。敢えて踏むことで一旦は自己保存し一層隠れ信者となるか、磔覚悟で敢えて踏むことを拒み死んででも信念を通すか。

少なくとも私は、他者に踏み絵を要求するようなことはしたくない、とは願って生きている。

でも大切な「信じる」

「信じる」を安直に使うのは良くない、という話を散々したのだが、それでもなお思うことは、「信じる」ということこそ人生だということ。

万人に通じる絶対的法則が決まってて、それを正確に踏めばこの世は楽園、というのなら、「信じる」は必要ない。その絶対的法則を把握して、それに沿って判断・行動し続ければ良いだけなのだから。

太古にまで遡っても、そういった絶対真理というのを求道した人もたくさんいて、仏教なんかも然りだと思うが、多くの宗教や哲学体系が生まれ残ってきた。

それでも、実践的に身にして使えるだけの、シンプルで確実で誰でもすぐ使える道具としては、この世には存在しない、と私は思う。きっと、真理なるものがあるとしても、七転八倒し続け、なんとか七転び八起きで生き続けて行った先に、これかなー??といつか感じた気になれるのかな、程度に捉えている。

そう思えば、今日明日の自分の判断や行動に、そういった絶対真理を持ってきて使うことなど考えられない。不十分なインプットと、不確かな自分の頭脳や心理や身体の中で、しかし時は止まってくれないからエイっと判断して身を振らねばならない。しかも、一度身の振り方を決めたら、「あぁ、やっぱりこっちじゃなくてあっちにしとけば良かったかな・・・」などと気を散らせていては良い行動ができない。

そうなると、不確かな自分が、不十分なインプットをもとに、時間切れの前に何かを判断せねばならないし、一度判断したらある程度の「振り返り時間」を持つまでは選んだものに全力傾注しないとならない。

と考えると、これは信念が無いと時間内に選べないし、選んだ後に脇目も振らずに没頭できない、ということになる。だから、信じることは、現実世界で今日も明日も生きていくためには、とても大事だと思っている。

何を信じようが、結局は自分を信じられるかだ

何かの選択を迫られた時。この人や物事に乗るか降りるか決める時。そんな時には信じられるかどうかが問われる。

しかし、問われているのは、その選択肢の人や物事だけではない。どんな状況においても究極的に問われているのはただ1点。「お前は、自分のことを信じられるか?」と。

「あなたはー、神を信じますかー?」と言われた時。それは、その「神」を信じるか信じないか問われているようでいて、そうではない。「神を信じよう/信じない と決める貴方自身を信じられるか?」と問われているのだ。

不完全だし、失敗もしょっちゅうだし、でもそんな自分もかけがえない存在だ。自分について一番大切に思っているのは、他の誰でもない自分自身。自分のことを一番よく分かっているのも、自分自身。そんな自分自身が選んだものなら、後で「間違えたー」ってなっても後悔はしない。そう思える自分かどうか、ということだ。

自分の中に、もう一人のジブンくんが居ると思えばいい。ジブンくんはとても良いやつで、誰よりも俺のことを考えてくれ、大切にしようとしてくれる。でもおっちょこちょいだしヘマもよくやる。けど、何があっても俺のことを見捨てないで寄り添ってくれる。そんなジブンくん。

いろんな情報を集め、いろんな人の話を聞いた上で、さぁ、決断の時ですとなったとき。うーん、賛成派も反対派もいるし、良さそうな情報も悪い情報もあるし。迷うわー。どうする、ジブンくん?

ジブンくんがそこで決めたことを、俺は信じる。仮に「あちゃー、やってもうたー、失敗だー」となってしまったら、夜、ジブンくんと2人でしっぽり飲みながら、「今回俺らやっちまったな。どこがアカンかったかなぁ」と俺とジブンくんで語り慰め合う。で、「まぁなっちまったもんは、しゃあないな。次からはこういうとこ気を付けような」「まだ完全に終わったわけじゃ無いしな、この後また何か状況変わるかもしれんし、元気出していこうや」で締める。

正解かどうかは知らないが、自分はそうやって生きていくことしか、知らない。

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