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操作主義者への対処考

老人には、やたらと「ダメ出し」をしたがる輩もいる。

ちょっと前まで、日曜日の民放で「喝ーっ」とか言ってた人もそうだが、もう足腰も立たない「昔の人」が、昔話の世界で現役に上から物申す、というのが老人にとって溜飲の下がる行為なんだろうか?

「大した自信だな」と呆れながらも感心してしまう。私自身は、そういうダメ出し老人の辛口な当たりにもダメージはあまり受けないタイプなのだが、私より若い一般の人は、概してそうでもないようだ。

今回は、ダメ出し老人を通して垣間見える、昔と今の社会の有様の変容を考えたい。そして、現代の有様においては、ヒトというものが交換不可能な希少資源と分かってない人間が、リーダーにはなれなくなっていることについて論じたい。そして少し、ダメ出し老人への対応についても考えてみよう。

人間の定めは、集団生活だ。

人間は「人の間」と書くのに象徴されるが、いうまでもなく独力で生活・生存することもできない社会的動物だ。

言語・文字・絵などによる知恵の伝承システムを生み出し、数えきれない先人が築き遺していった知恵・仕組み・設備を世代を超えて継承しながら、改良したり新たな発明をして、進歩的に子々孫々へ引き継いでいく。ヒトは個体では、野生動物などに比しても大した身体能力でも無い。ただ集団行動をどんな動物よりも上手く行うことによって、個体としての能力は遥かに上の野生動物をも凌ぐ力を有している。

ということで、人間というのは、他者と協調しながら集団的活動を効果的に遂行運営することが、特異点であり優位点であり生命線だ、と言って良いと思うのだ。

以前に別の投稿で書いたことがあるが、集団の大きさが発揮する力の大きさに必ずしも比例しないし、集団が大きくなればなるほど、統率のとれた一貫性のある明瞭な行動をとり続けるのが難しくなっていく。優れた集団というものは、その難しい集団行動をより効果的・継続的に行うための知恵があると私は思っている。

ダメ出し老人に見る社会変容

「ダメ出し老人」がどんなものか、ざっくり定義してみたい。一つの側面として「老いた人」である。若者・若人の対極だと言える。そして「ダメ出し」要素を加味すると、他者や社会や環境の間違いを指弾し、それらだけが変化して自分の好都合に合わせてくるよう要求する者だと思う。

こう言うと、「ダメ出しだって、他者や社会や環境をより良く導こうという努力であり、正当な行動だ」と反論するダメ出し老人が必ず居る。そういう時は、イソップ童話の『北風と太陽』を想起してもらいたい。服を脱がせようとして、本人の納得・意欲を無視して引き剥がそうとすると人間は抵抗する。逆に本人が喜んで服を脱ぐ状況を作ると、進んで服を脱いでいく。人間というのは、他者から操作されることを極端に嫌う動物であり、納得し自ら望んだ時しか変わろうとしない・できない動物なのだ。

そういうわけでダメ出し老人は、他人を自分好みに変わるよう仕向けたい、という欲望で動いている。しかし、対象が進んで嬉々としてそっちに行くような下地を作る知恵が無かったり、面倒臭いからやりたくないという理由でやらない。代わりに、「追い込まれて渋々変わる」を実現しようと圧をかける努力をするのだ。

さて、ダメ出し老人が少なくないことを鑑みるに、昔はダメ出しで他人を変えるということが、案外と有効に機能していたのだろう。昔はそれだけ、「渋々変わらざるを得ない」という状況づくりがし易かったのではないだろうか。現代は、ダメ出しでは「追い込み」がしにくい環境にあるため、ダメ出しによる他者変更が無効なんだと思う。

「人はレア資源」との前提認識が重要

ダメ出しが昔有効で今無効な理由を考えてみると、昔は生産年齢人口が多く、人の替えが効いたからだろう。学校も1学年のクラス数が多く、若い人が溢れていた。だから、「言う通りに変われ。変わるのが嫌だったら、替えなんか幾らでも居るから失せろ」という戦略が有効だったのだと思う。一方現代は若い人が少なくなっていて、人間は貴重品化しているのではないか。そのため、「嫌なら辞めろ」という姿勢ではどんどん流出していく環境になっているのだと思う。

以上のように、「人はレア資源である」と認識しているか否かが、好々爺になるのかダメ出し老人化するのかを分けると私は思っている。つまり、社会情勢分析、環境に対する認識、これが鍵を握っていると思うのだ。

リーダーには、インセンティブ(欲得の誘導)の設定能力が不可欠

集団のリーダーをやった経験がある人は漏れなく賛同してくれると思うが、正論で人は動かない。仮にダメ出し老人の論が正論だったとしても、正論を論じて「お前ら正論やれ」と説諭したところで、それだけでは人は能動的に動かない。能動的に変わりたいと思えるだけの、変化インセンティブを設けなければならない。

言い換えると、人間誰しも持っている欲得というものが、集団にとって望ましい変化・行動に向かっていく原動力になるように上手く設定することが不可欠なのだ。営業成績が良かったらボーナスを出す、なんてのが一番シンプルで分かりやすい欲得刺激の典型である。他にも、表彰・肩書き付与・地位向上といった「得」を道具にして、集団に望ましい変化・行動を促進する手もある。

これを聞くと、「金も無いし、喜んでもらえる特典を用意できない」と考える人も多いのだが、金や大層な資源を使わないと欲得刺激ができないとも限らない。例えば、「最近、こういうことしてくれるようになったのを、僕は気づいてるよ。嬉しいよ」「ここのところ成長して頼もしくなったな。頼りになるよ。引き続き大いに頑張ってくれよ。頼むな」といった声掛け・心配りも、大きな欲得刺激になり得る。

一つ注意点があるとすれば、前述したように、操作主義は禁物ということだ。人は、「都合良く他人に操作されている」と感じると激しい反発を感じるものだ。声掛け・気配りを「あいつを好都合に操作するためにやろう」という意識が顔色・声色・態度に出てしまうと、欲得刺激に無効になるだけでなく、一気に反発心や白けを喚起してチーム崩壊要素になってしまう。

リーダーになれるか否かは、人間観で分かる

このように、操作主義が出てしまう人間はリーダーになれないのだが、そもそも「操作主義が出てしまう」とか「操作主義を隠す」といった発想になっている時点で失格とも言える。隠しても隠せないのが操作主義なので、操作主義的な発想がある時点で、出そうが隠そうが出ちゃうのが操作主義なのだ。

「操作主義じゃないけど、集団を望ましく導く」というのはどういうことだろうか。答えは極めてシンプルで、集団のメンバー個々それぞれについて、「この人が納得して喜んで望ましい行動を取ろうと考えてもらえるには、何を用意して背中を押してあげたら良いんだろう?」とサービス提供発想で考えていけばいい。見方次第では非常に面倒なことなのだが、でもこれ以外の近道も無いのだから、これが近道であり最も効率的で効果的な手段なのだ。すなわち、操作主義的な人の反対はサービス提供主義的な人であり、今やサービス提供主義な人しか優れたリーダーたり得ない。

では、操作主義な人とサービス提供主義な人は、何が違うのだろう。その答えは、私は人間観・世界観だと思っている。

操作主義な人は、人間に上下があるという信念がある。立場・肩書きが上だったり、年長だったりするものが上級人間で、下位の者や年少者は下級人間だとの世界観を持っている。上級者は、下級者より賢く権限もあって当然であり、下級者は上級者から操作・操縦されて動かされて当然だ、との世界観である。操作主義者は、納得して自ら進んで行う時と、納得してないがせざるを得ない状況に追い込まれて行う時の違いに無頓着だ。だから、自分の思い通りにしようとして、追い込みをガンガン掛けにいく。上位者は下位者の時間や労力を好きに使えると思っているので、なんの悪気も無しに当然のこととしてそれをやる。そのことで、メンバーの心がどんどん離れていき、自分で自分をリーダー失格ポジションに追いやっている構図に気付けず、離反者を続出させ、ついに集団崩壊に至らしめてしまう。

サービス提供主義者は、立場・肩書き・年齢の上下は、演劇における役みたいなものだと思っている。本質的な人間の上等下等とかと関係無いものであり、上位者も下位者も根源的にはフラットな関係だと思っている。上位者は、下位者が持たない権限と責任を預かっていて、下位者の時間や運命を預かっている者だと認識している。そして納得の上に望んで行動することの大切さをよく分かっている。だから、納得感や「よっしゃやったろう」という意欲の醸成を非常に大切にする。当然、金もそれ以外も含めた「報酬」も公平かつ手厚く用意しようとする。結果、優秀な人はその人の下に付いてると気持ち良いしハッピーでアゲアゲな気分になれるので、自然とその人の集団に加わりたい人が増える。「人たらし」と称されるような人は、大概このようなサービス提供主義者だ。

・・ということで、ダメ出し老人を見るたびに、上下構造を前提とする操作主義の無力さと、フラット構造を前提とするサービス提供主義者の計り知れない力を感じるというわけだ。

受け流し、距離を取る

困ったダメ出し老人、上下構造型の操作主義者にどう対応すべきだろうか?私は答えは一つしかないと思う。「受け流し、距離を取る」に尽きる。

特に若くて血気盛んな頃にやりがちなのは、ガチンコ論破に掛かるという失敗である。不正や悪は正したい、という正義感だろうか、困りものに正面からぶつかって正しに行こうとしてしまいがちだ。

だが、ダメ出し老人の得意技は、詭弁だという点を忘れてはいけない。前述の通り、ダメ出し老人の源泉にある欲望は、「自分は1ミリも変わらずに、他人や周囲を都合よく変わらせたい」である。その中でも、「自分は1ミリも変わりたくない」すなわち大いなる自己正当感が根底にある。彼らの生命線と言って良い命懸けの死守すべきものが「俺は間違えていない」「俺は1ミリも変わる必要などない」なので、ガチンコ論破というのは彼らの生命線に対する挑戦であり、彼らからすると生死を分ける戦いを挑まれている事になる。よって、もはや論理を超えた死に物狂いの反撃を喚起してしまう。

それ即ち、困り者に多大な時間と注意と気力を使わされる、という事態を招く。彼らは必死に反撃するので、もはや論争だけでは済まず、周囲の人も巻き込んだ闘争にまで発展する。周囲のまともな人は、この厄介で迷惑な闘争から遠ざかろうと、貴方からも離れていく。気づくと、ダメ出し老人だけでなく、ガチンコ論破を仕掛けた自分もが、周囲の「困り者」として敬遠対象になっていることに気づくだろう。負けても勝っても大損しかしない戦争を仕掛ける愚にハマってはいけないのだ。

ということで、とり得る唯一の賢い選択肢は、余計な戦争にも巻き込まれぬように必殺「受け流し」でいなし対応に徹しつつ、徐々にフェードアウトしていくことだ。相手から見たら、「あれ、ふと気づいたら最近、あいつ会わんし会う理由や機会も無くなったな」となるように静かに関係を薄めていくのがベストである。

そして、あまりに有害性が高い場合は、シャットアウトという手段も検討すべきだろう。どんな正論な相手だろうが、接しているだけで自分がぶっ壊れそうだと感じたら、自分がぶっ壊れないような環境整備を最優先すべきだと思う。もちろん、その選択は会社を辞めるといった重大な変化を伴う可能性もあるが、最終手段として念頭にはいつも置いておくべきだろう。

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