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日記:Day5 しまなみ海道(②安芸編)~音戸へ

阿波安芸旅の5日目は、今治からしまなみ海道を尾道まで渡り、そのあと呉へ向かった。

一つ前の記事では、しまなみ海道の伊予(愛媛)の過程をご紹介した。

今回は、しまなみ海道の安芸(広島)をご紹介する。


レモンの島、生口島には女子がたくさん

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大三島から多々羅大橋を渡り、広島県に入って1つ目の島である生口島へ。橋を降りた地点から、まだ青々としたレモンの畑が広がり、生口島が「瀬戸内レモン」の島であることを思い出させてくれた。

出発前、正直なところ生口島に見たい所はなく、さっさと通過するつもりだった。しかし、島を原チャで走っていて、すぐにこの島に対する強い関心が沸き上がってきた。

なぜか。それはズバリ!女子が多い!!
今回のしまなみ海道旅で、最もエナジーの動きを感じた島だった。

中心街は耕三寺あたりになろうかと思うのだが、その中心街から遠く離れた何も無い海岸沿いの道を、若い女子2人連れが歩いていたりするのだ。それも一組ではなく、複数とすれ違った。サイドミラーをチラ見する機会が増え、「この人たちは一体、なぜここに居るのだ?観光客?この地に住んでいる人?」とCPUの回転を喚起してくれる。

中心街の耕三寺までくると、今度は若いカップルが居た。ここは縁結びとかなのか?もとは浄土真宗の寺だったらしいが、今は寺というより博物館となっていて、観光スポットに特化している。入場料が1,000円超えだったので、一人オジサンが入る場所でも無かろうと入場は遠慮した。

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あまり時間を掛けられず、早々に次の島へ向かったが、今後も生口島には大注目だな、と感じた。


造船と村上海賊の島、因島

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生口島を離れ、次は因島。ここは、大島の「村上海賊ミュージアム」で勉強したように、村上三家(来島村上氏、能島村上氏、因島村上氏)の一角である因島村上家の拠点である。そして、その流れを汲んで造船の島としても有名だ。

残りの行程と日の入りまでの残時間が気になって、早々に通過しようと考えたのだが、やはり歴史の誘惑に勝てない。島の真ん中にある因島水軍城に登っていった。

城は資料館のようになっていて、掲載されている資料はほぼ村上海賊ミュージアムと似た内容で、量は少ない。ただ、実際に高台に再現された城郭を見て、当時の様相に想いを馳せることが出来た。

ほぼ都会?向島

因島からさらに尾道側に橋を渡ったところに、しまなみ海道の最も本州側にある向島に入る。尾道の市街と橋で直結しているせいか、たぶんベッドタウン化していて街の様相も都会的である。

尾道は通過して三原城へ

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尾道を早々に抜けて三原へ向かおうとしたが、道路が分かりづらく、国道2号バイパス(125cc以下が走行禁止の一般道)に入ってしまう。早々に抜けると市街から離れた山中に出て、急こう配の狭い坂道を必死に下りて、なんとか国道2号の本線に合流。

三原に入ると、帝人・三菱の色合いが強くなった。市内は、広島大学附属小学校の下校時間らしく、ハイソな子供たちがたくさん歩いていた。そして駅前に出ると、三原城址が現れた。

私は福山城と勘違いしていて、立派な天守が出てくると期待していたが、この三原城址は石垣しか残っていない。勝手に期待して勝手に肩透かしを食らった格好になり、肩を落として次の目的地へ。

竹原に向かう道中、「幸崎」地区までくると、今治造船広島工場が現れた。

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巨大なクレーンには『船主と共に伸びる』と書いてあった。これは、今治造船の企業理念である。私の元勤務先のミッションと似てる。

竹原小早川氏の海城、賀儀城址へ

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次の目的地は、戦国の世に、竹原小早川氏が拠点を築いた「賀儀城址」である。

市街から離れた海沿いの集落に、ちょっとした小山が出てきて、それが賀儀城址であった。原チャを降りて、小山を登っていくと、海を一望する広場のような城跡に出た。なるほど、瀬戸の海をこうやって一望する拠点だったのだな、と体感できた。

賀儀城址を出て目を上げると、廃校の匂いがする建物が目に入った。行ってみるとやはり廃校。そこは、2015年3月に閉校となった「旧・忠海西小学校」だった。

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忠海西小学校(ただのうみにし しょうがっこう)は、明治6年に「修成館」として開校された由緒のあるところだったそうだ。きっと、多くの卒業生を輩出してきたであろう、この廃校舎に一礼をして出発する。

呉・音戸入り

寄り道が過ぎて、予定していた到着時刻に間に合わなくなりそうだったので、次の目的地である広島市安芸区「矢野城址」は無しにした。この矢野城址のある矢野浦は、戦国の安芸水域の要衝であり、音戸町誌にもたびたび出てきたので訪問を考えたのだが、後日でも可能なので飛ばした。

竹原から呉に向かって国道185号をひたすら走っていく。竹原と呉の間にある東広島市では、安芸津で「新来島広島どっく」の大工場を見る。ここは、もともと太平工業という造船会社だったが、「来島どっく」の来島興産が1987年に太平工業ほか13社の造船会社を合併し、その後いろいろあって「新来島どっく」傘下になっている模様。

そんなこんなで日も暮れかかった時分、呉の阿賀で県道66号に入り、警固屋を南東から回って音戸大橋を渡った。

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着いた!ついたー!

一日中、原チャを運転して感じたのは、シートに座り続けてお尻が痛いということ。そしてスロットルを回す右手の掌が疲れていること。広島から東京に戻る際には、さらに尻と掌に過酷な負荷が掛かるだろうから、鍛えておかねばならない、と感じた。


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