「成長中」という認識の大切さ
幸福度が高く、創造的で、順境でも逆境でも前向きなエネルギーに溢れるチームであるためにどうしたら良いか、というのを私は探究し続けているのだが、それはどうやら、自分も仲間もチーム全体も「成長中だ」と確信できているかどうかに掛かってるんじゃないか、という話。
チームとは。明示的か暗黙的かによらず、共通目的・共通目標が想定される集団
最初は、チームの定義をしてみよう。
小さい単位で言えば「夫婦」とか「家族」も当てはまるし、部活のチーム、仕事場のチーム、そして大きくなると地域コミュニティとか、場合によっては国家レベルにもなるかもしれない。たまたま居合わせて自然発生的に組成される集団、例えば、事故や災害時に助け合って避難や復旧を行う人たち、なんかも含まれる。
任意か偶然か別として、何か共通目的と共通目標が想定されているパーティーなら、なんでもチームだと言えるかもしれない。
これは必ずしも、チームメンバー全員が、共通目的を理由に集まってきたことを意味しない。居合わせた避難民とかまさに典型だし、家族でも「生まれて物心ついたらこの父母が居た」となる子供はそうだ。仕事だって「金が稼げりゃなんでも良い」と思って就職する人もいれば「御社の理念に惚れ込んだ!」と入ってくる人もいるが、その入職時の動機だけで、良いメンバーになるかそうでないか決まる訳でも無い。
そんなパーティーでも、誰かがリーダーシップを発揮して、「このパーティーはこれを共通目標にして頑張っていきましょう」とメンバーに浸透させてチームになるものがある。一方で誰もリーダーシップを発揮しない結果、本当に居合わせただけの集団でチームにならなかったというものもある。
「チーム崩壊」なんて言葉もあるし、「その時、一つのチームになった」などと言うこともある。人間の思いや気構えは変化する。同じ形を整えても一様にチームになるわけではない、というところが興味深いし、「チーム」というものの本質に関わるキーポイントなんじゃないかと思う。
チームになれるパーティーと、チームになれないパーティー
家族でも良い。仕事場のプロジェクトチームでも良い。同じようなメンバー構成・規模の集団を作っても、結束力が高くエネルギーに溢れたチームにもなれば、バラバラでよそよそしい雰囲気に満ちて足の引っ張り合いに終始する集団で終わることもある。またスポーツチームなどでは、昨年まではまとまりがあって一致団結していたいいチームだったのに、今年はまとまりに欠けて集団としてのエネルギー圧が減ってしまったなんてこともある。
このように、同じような構成を組んでも、チームになる集団と、チームで機能できない集団が生まれるのだが、それは何で差が生まれるのだろうか。これが、私の探究していることの根幹と言って良い。
で、私は自分が好きな野球を観ていても、その違いを観察することが多い。チームスポーツでは、下記のようなコントラストがしばしば生まれる。
【A状態】メンバーが自己犠牲も厭わず、チームの勝利への貢献に一身に邁進して「一致団結」しているチーム。フルに発揮されたメンバー個々のエネルギーが、すべて相手チームとの戦いに向かって塊になった状態
【B状態】メンバー個々のエネルギーが出し惜しみされていたり、エネルギーの向き先が相手チームとの戦いに向かっていなかったりして、相手チームが受ける圧が弱い状態
当然、チームスポーツでは、大抵A状態に近づくことが望まれるのだが、その方法論や訓練法は、まだまだ確立していないと思える。属人的であり、たまたまチーム力の向上のセンスがある人が入ったらA状態に近づいた、とか、代替わりしたら何故かB状態になってしまった、ということが起きているように思う。
個としての力の向上と、チーム貢献力の向上
野球で言えば、投げる・捕る・走る・打つといった、選手個人の能力向上は目覚ましい。技術論・訓練法も発達しているし、「さぁ、練習するぞ」という時には多くのエネルギーがここに注ぎ込まれる。
ところが、チームとして活動する上で、他のメンバーがよりパフォーマンスを上げられる状況を作るとか、想定外の苦難が来てパニくりそうな時に前向きに団結できる状況を作るとか、諦めて投げ出したい時に励まし合って持ち堪えられるようにするとか、そういうチーム貢献力の方は、あまり技術論も訓練法も形になっていない。だから、運任せで、たまたま良い人が加わると良い感じになるし、その人が抜けてしまうとバラバラになってしまうなんてことも起こる。
特に野球のように、立ち位置が比較的はっきりしている種目の場合は、監督・ヘッドコーチ・キャプテン格の選手なんてのが、チーム貢献力へのセンスを持ってるかどうか、かなり影響大といえよう。
(だからこそ、前の投稿の通り、中日ドラゴンズや北海道日本ハムの今後を心配してるのだが)
腐ったミカン論
で。だいぶ論理飛躍する気がするが、私は、自分も他のメンバーも「成長中だ」と確信できるムードを作れるかどうかに、多くが掛かっていると思っている。
難しいのは、10人のチームがあるとして、成長中だと9人が思っていても、たった1人が「自分は成長しない」と思ったらそこから腐るというところだ。腐ったミカンは、箱の中の他のミカンも腐らせるってやつだ。日本ではみかんが使われるようだが、欧米でもこの喩えは使われるそうだ(みかんじゃなくリンゴで喩えるらしいが)。腐食の伝播力の高さだろうか、良い状態を保つのは難しいが悪い状態にさせるのは簡単、と言えるかもしれない。
しかも、「成長中だ」とか「成長しない」とかいうことは、必ずしも日々みなが明確に自己認識している訳でもない。むしろ、自分でも思うとなく思ってしまっている、という潜在意識に近いところにある。自分がツヤツヤしたミカンなのか、腐ったミカンなのか、よくよく注意して自己観察・自己省察していないと見失うというわけだ。
自分やお互いを、「成長中」と思うか「成長してない」と思うかは、エネルギーの向き先と質を変えてしまう。成長中と思えば、出るのは期待・サポート・アシストになるし、成長してないと思えば他者や周囲を下げることで自分の相対地位を高める方向にエネルギーを使いに行ってしまう。ポジティブ・ネガティブとかいうのは、私は結果論だと思っている。それよりも、自分や仲間を高めることにエネルギーを使うのか、他者や環境をこき下ろし貶めることで自分の相対地位を高めようとエネルギーを使うのか、それが大事な分岐点なのだと思う。
「自分」「我々」への希望と絶望
で、その大事な分岐点をどっちに行くか、というのはひとえに、自分・我々への希望を持っているのか、絶望に堕ちているのか、で決まると思っている。
自分・我々に、克服できる・やれる・伸びる・勝てるという希望があれば、その希望を拡大して具現化する方向に人はエネルギーを使う。一方で、自分・我々には、克服できない・やれない・もう伸びない・勝てないと絶望を抱くと、環境が不公正だとか他者はズルをしているとかとにかく自分・自分らの現在状態をそのままで相対的地位を浮上させに行こうとエネルギーを使ってしまう。それが、負のオーラとなっていわゆるネガティブを引き起こすと思うのだ。
もはや、これは根拠など要らない。根拠なんか無くても、自分・自分らは必ず成長し、いずれきっと克服し成功するんだ、という無根拠な確信。これを「希望」という。
希望は、蝋燭の火だ。運の良い人は、生まれて物心つくまでに、親など周囲の近しい大人に、火を灯してもらえる。運悪く近しい人が灯してくれなくても、心を開いて自分の蝋燭を晒していると、必ず火を灯してくれる愛のある他人はかわるがわる現れる。その火を大切に育てていけるかどうか、が大事だ。
どうせ、自分に近づく人はみな、蝋燭の火を吹き消しにくる人だけだ、と根性が曲がると、せっかく火を灯してくれる人も遠ざけて、永遠に火がつかない蝋燭になってしまう。そして火がついている他人の蝋燭の火を吹き消すことに必死になってしまう。
つまり、世界観が「予言の自己成就」のように自分の在り方を決めてしまうのだ。世界は、他人の蝋燭に火を灯し合う人が溢れていると思えば、その人自身の蝋燭には火を灯してもらえるし、その人自身も蝋燭に火を灯す人間になる。逆に、世界は、他人の蝋燭を吹き消しにくる人で溢れていると思えば、その人自身の蝋燭はいつまでも火が灯されないし、その人自身が他人の蝋燭を吹き消す人になる。
想いが、自分を作り世界を作る、というのは真なりだと思うのだ。
「心の蝋燭に火を灯す」は技術か?
では、心の蝋燭に火を灯すというのは、持って生まれた才能なのか、訓練で伸ばせる技術的能力なのか。私は、後者なんだと思い込んでいる。
確かに、生まれながらにポジティブでエネルギッシュな親や大人に囲まれている人は、意識せずともそれが身に付く幸運もあるだろう。しかし、生まれながらの環境に恵まれなかった人も、後天的に訓練で獲得できる能力だと私は思う。
ただ、人というのは生まれてから必ず一度は、自分の蝋燭に他人から火を灯してもらえた経験をしなければ、火を灯す能力獲得の道を歩み始められない、とも思う。愛ある他人から、希望の力をもらった経験というのが必須だと思うのだ。
自分はもうダメだ、と心折れてやさぐれていた時に、根気よく「お前は大丈夫だ、必ずやれる」と信じて成長を待ってくれていた眼差し。「もう無理だ」というピンチにも、「まだまだこれからじゃ!」と気丈に工夫を凝らして見事乗り切った馬力のあるリーダーの背中。そういったものへの感謝と憧れが、「よし、俺も、心折れるような苦境にも前向きに元気に行動して、心折れてる他人にも勇気とやる気を持たせられるような人間になろう」という決意を生むのだと思う。
だから、自分や自分のチームが苦境に追い込まれた時も、「来たなー、見てろ、こんなので俺は心折れないぜ。無理と思える状況にも根気よく諦めずに前進して、そのうち周りの皆んなに『エッ!?』『オ〜ッ!』『よっしゃー!』と言わせて見せよう」と思えたら良い。人生、そんな舞台のような気がするのだ。
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