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ココロの風景と、事象・情動の独立化

方向性として合ってるか、違ってるかは分からないのだが、今の私は、ココロの風景を明朗で闊達で清々しいものに保ちたい、と思い、アレコレ試している。

それって、つまるところ、私の身辺に起こる事象や、それに対してある種反応的に生じる感情の動きを、ココロの風景に直結させずに、ココロの風景を守ることの試みだと思われる。

事象も情動も選びきれない

最初は、望ましいココロの風景を保つには、私に日々生まれる情動は好ましいもので埋め尽くさねばならないし、そのためには望ましい事象ばっかり起きるようにならないと実現しない、と思っていた。

そこで、心に湧き立つ不安を感じると、「不安を感じてるぞ、イカン!」と無きものと認識するよう自分に強いて、そこから目を逸らすべく、別の良いことを頭の中に占有させようと頑張っていた。

だが、これはちっともうまくいかなかった。起きる事象は、目を逸らそうが厳然と発生しており、それに対して反応的に湧き上がる恐怖や不安も、否定しようが目を逸らそうが、抱いてしまうのだ。

自分の中の教師的ワタシが、そのネガティブな感情やトリガーのネガティブ事象を否定しようが目逸らしを強いようが、自分の中の生徒的ワタシは、教師的ワタシの目を誤魔化して、隠れて怯えるばかりであった。

ダメだ。否定や目逸らしは、自分で自分を偽り、自分自身に対しても心を開いて素直であることから遠ざけ、自己否定を強めることにしかならなかった。

引き寄せの法則とか、どこにあるんだよ

世に流通する、引き寄せの法則とか見聞きして、取り込もうと足掻くのだが、前述のように、ちっとも望む事象も情動も引き寄せてるように思えぬ。

次第に、「引き寄せがうまくいかないオレ」的に、より望ましくない心象風景になってしまったきらいすらあった。

望まぬ事象も情動も、起こらないようにできないし、無くなりはしない。こりゃ、オレの認識するような形での「引き寄せ」は無いな、と諦めた。

事象も情動も選択できないならば

オレの心のキャンバスに、望んでない、灰色の出来事や感情が、入ってきてしまう。灰色なんか無いと否定しても自己欺瞞だし、ピンクの出来事や感情しか入らないようにしようとしても、勝手に灰色が向こうから来てしまう。

そんなオレにできることはなんだ?

完全ピンク一色は当面諦めて、ところどころ灰色に染まる部位があることは仕方ないと受け入れ、それでも全体総和的にはまぁまぁピンク、を日々保つ・作ることしか無いと思った。

それは、雲一つ無き100%晴天とか、曇りなくピカピカの鏡であることは諦めることと似ている。

ある日は、雲は出てるが雨は降ってなかった。次の日は、ポツポツ雨が落ちる時もあったが土砂降りじゃなかった。その次の日は午後は晴れ間が見えた。と、こんなレベル感で良しとするとか。

曇りなくピッカピカの鏡じゃないけど、ゴシゴシ擦ってまぁ顔や服をチェックできる程度に反射してる、少しくすんだ鏡。これで良しとするような。

晴れたら良し、曇ってもなお良し、小雨降ってもまぁ良し、雨降ったら堪えて次の日を待て、てなところか。

事象→情動のパターン変更は試み中

昔、チビだとコンプレックスを抱いて、背の高さを意識させる状況に居合わせるのを恐怖していた時期もあった。チビと言われると、屈辱と恐怖で平常ではいられなかった。

それがある時から、自虐ネタにして喋れるようになってみると、むしろ注目と笑いを取れるネタとして利用するようになって、心も開放されたことがある。

つまり、事象は同じでも、自分の捉え方や構え方が違うと、触れられたく無いタブーだったものが、触れられると美味しいネタにもなったということだ。

起きる事象の方は、避けたり引き寄せたりできる範囲は限られるのかもしれない。しかし、事象に即して湧き起こる情動については、変えることができるかもしれない。

私が恐れたり、不安を掻き立てられて苦悩ループに陥るような状況を分析して、事象→情動の道筋を変更しようとは試みている。

他人からも自分自身にも隠したいと思うような、コンプレックス・臆病さを、逆に表に露出させてネタにするくらいできると良いのでは?

これが、今の私のテーマだ。

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