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溌剌とありたい→感覚と解釈

うつ状態になり適応障害、からの休職中。

今朝も、Audibleで、助けになりそうな書籍を流し込んでいる。

これまでも、くどくどとnoteに書いてきた自己認識を、深めて刻むために、今日も書くものなり。

自分の目下の課題、2点おさらい

休職で得た時間で為す、私の課題は、2つ。

  1. 望んでない状況に直面して、心折れ掛かってしまった自分の心境を、溌剌としたものに快復すること

  2. 今後、望まない状況に直面しても、溌剌たる心境を維持できるようにすること

きっと課題1は、おかげさまで進展中

こんなふうに、課題認識を鋭敏に持ち始めたのは、ここ最近。それは、恐らく課題1が良い具合に進展してきたからだろう。

会社や上司も、私が心置きなく休めるように、面倒な調整手配をして下さった。

家族や親しい友人は、傷んだボクを温かく見守り、程良く気遣い、さりげなく力を与え続けてくれた。

私自身も、自暴自棄にならずに、なんとかするぞと一進一退の中で模索を続けてきた。

先達の皆さんが残してくれている言葉や概念を、藁をもすがる気持ちでさまざま見させてもらい、それらも私の道標になってくれている。

同じように快復や前進を目指す方々と、お会いしたりネット越しに接触し、同行の旅人のような心強さも頂いている。

そういった皆さんのお陰で、私の心は休職前は想像しなかったほど軽やかになり、明るい光が差したような心境になってきた。本当にありがたいことで、これからも、機会を捉えて感謝伝達と報恩をしていきたい。

課題2、師匠を据える

課題1が順調にきている中で、心に余裕ができた私は、数週前から課題2に取り組み始めた。

今回のつまずきの経験の中から、従来のあり方を見直して、これからのあり方をより良くすることだ。

そして、私は、中村天風翁をこの課題対応の師匠に据えた。天風翁の書き残した言葉を朗読する音声を聞いた時に、その文言が示す内容そのものに分からんところも多々あった(今も大いにある)。しかし、確実に、明るく温かく力強いものを感じたからだ。

スポーツでもそうだが、弟子入りしたての未熟者には、熟達者が表現する世界観や方法論は、理解不能や素っ頓狂も感じるものだ(映画『ベスト・キッド』の如し)。

だから、師事する当初は、理屈が納得できるかは二の次にして、直観を大切にしている。「何の意味があるんだよ、それ」と思うことが出てきても、「でもオレの感触は、この人の見てる景色をオレも見たい、と訴えてくる」と感じられるかどうかを尊重する。

今回の私の場合、それは中村天風翁だった。

それでも浮気しまくり

天風翁を師匠と据え、その残された言葉を目や耳から注ぎ込み、自らの手と口でも出力している。それは一貫して続けている。

しかし、「よく分からん」「何のことを言われてるのか?これは」と腑に落とせぬものも適宜発生し、フラストレーションは生まれる。

今の自分が腹落ちしないこの言葉は、しかし何か大事な見方・構え方・因果を表しているに違いない。それだけに、何をしたら見えるべきそのものを体得会得できるのか?という苛立ちが生まれる。

天風翁の言葉からだけでは、その手掛かりを得られないので、その他の方々の言葉も探しに行く。天風翁の言葉を解説したものや、似た境地に到達したのではないかと思う別の方の言葉を読んでいく。天風翁の表現した言葉で示す同じものごと・状態を、別の方が違う表現の言葉で表しているかもしれぬと。

そして、「空振り」してみたり、時には「なるほど、天風翁のあの言葉は、別の方が言うこのことだったのかもしれんぞ」となる。「間違いなくコレだ!」と確信に至ることは滅多に無いか、「もしやコレのことではないか!?」は結構あって、なかなか見つからなかった宝箱のカギを見つけたかも、というような興奮を覚える。

それが正しかったか否かの答えは、自分の人生をかけてやっていくことだろう。しかし、必ずしも「浮気」も悪く無いんじゃないかと思っている。

言葉は便利だけど、完璧じゃ無い

長い時を経ても絶えずに継承されてきた言葉は、やはりそれだけの価値がある気がする。しかも、古今東西に依らず、かなり同じような世界・境地を見てた人たちが、時々の地理的環境・社会的状況の中で、1番響くと思った言葉でその境地を表現してたのかも。

時を経て、地理も違う私には、古の人の言葉はそのまんま見聞きしても刺さらない。そこで、歴史学を使って当時の状況をイメージした上で、その言葉でどんな状態を表したかったのか想像していく。

言葉は便利だけど、概念的なワードも多く、表したい対象と表す言葉が、絶対的に確実に結び付かない限界もある。

それでもやっぱり、言葉に頼るしか無い。

課題2に光差す?これからが大事

課題2にも、最近光が差してきたような気になっている。あとで振り返って「勘違いでしたー」ってなるかも分からんけど。

今のところ、天風翁を師匠に据えて間違ってなかったと思ってる。それどころか、現代の脳科学や心理学を基礎にした話と照らしても、よくぞ、科学的裏打ちができなかったその時代に、そのことを見抜かれたなぁ、と感動することしきりだ。

そらは、空海や親鸞と言った太古の上人にも感じるところだ。しかし、それらの方々は、今に生きる凡庸な私には、その気になって身を寄せ指針を仰ぐには、あまりに遠い。今時点の私の取り組みにおいて、日々指針を仰ぐ身近な師匠にはいただいていない。

さて、課題2に光差すといえど、知るは易く行うは難し。分かった気になれる時間があっても、日常の我が身の行い・有り様が、知ったそれを絶え間なく実現できるかは、全く別。

今もし、改善したあり方を知得したとして、それは体得したと言えるほどに習慣化されていくまでには、時間が掛かる。元の習慣に引き戻されないためにも、一定の修行期間で自分の習慣・身体に落とし込まねば。

ボケっとサボると、元に回帰しようとするので、まだまだこれからだなと思う。

感覚は否定しない。問題は解釈だ

私なりの課題2に関する、取り組みポイントの確信が、これだ。

感覚(痛い、辛い、怖い)の発生を否定してもムダ。むしろ、闇で膨らんで爆発する。

感覚は、むしろ発生早期に、見つけて認める。

ただ、その後に、余計な解釈を付けない。むしろ、力強く建設的な解釈を加える。そして、その感覚が、不快感として居座るのを防いで、愉快感が心を占める割合を早く取り戻す。

これを、はじめは意識的に、そのうち無意識のうちにできるようになりたい。

言い換えるならば、「ネガティブ感覚→ネガティブ感情→ネガティブ思考→ネガティブ体調」の連鎖を断ち、ネガティブ感覚はその感覚として存在は認めつつ、感情と思考と体調に手出しさせないこと。

さらに言い換えれば、感覚器官で得たネガティブ感覚はそのまま留め置き、ヨシヨシしながら、見方を変えてみたり別の威勢良い感覚を加えたりして、感情・思考・体調の全体は軽妙明朗のエリアに入れること。

そして、思考(大脳新皮質)と体調(脳幹)が感情(大脳辺縁系)の指図に従うのだとすれば、ひとつの悪い感覚に感情を好きにさせず、感情という気まぐれじゃじゃ馬をうまく手なずけること、なのだと思ってる。

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