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あわいを、見つめる。

 昨年は雪があまり降らなくて、雪かきをする機会は少なかった。今年は暖冬と予想されているが、果たしてどうなるのやら。アパートに住んでいると、雪が積もれば雪かきを協力し合ってやることがある。大雪と予想される前日は何時に起きればいいのか思案に暮れる。我が家の駐車場が道路側にあるため、他の方のことを慮って早めに雪かきを行って車を出しやすくしておこうかとつい考えてしまう。その結果、朝4時に起きて一人寂しく、雪と格闘する。運動不足にはもってこいだ。面倒くさいと思うのではなく、住民のため、そして自分の身体づくりという捉え方をしている。
 ただ、何度やっていても悩むことがある。隣の家との境目以上にやることが多いのだが、線引きされているわけではないので、どこまで雪かきをすればよいのか分からない。時間があれば、出来る範囲でやるが、その気持ちは果たしてどうなのだろうか。確かに自分の家の領域をやってもらえれば、その人は嬉しいと思うかもしれない。けれども、逆に自分がやらずに他の方がやってくれなかったら、どうしてやってくれないのと、ある人は不満に思うかもしれない。
 「隣の三尺」という言葉がある。自分の敷地だけでなく、隣の敷地三尺まで踏み込んで掃除しなさいという教え(躾)だ。こうすることで隣人との人間関係が良くなることもある。ただ、人は誰でも他人に入ってきてほしくないところも合わせ持つ。さらに一線を越えれば、逆効果になることもある。つまるところ、“小さな親切、大きなお世話”である。だから、何かをする以上、自分が見返りを求めない程度がほどよい関係といえそうだ。そういう意味でも、三尺程度の気遣いが、人間関係をうまくやっていくことなのかもしれない。
 面接の練習や、悩み事の相談を受けることはあるが、「隣の三尺」程度の関わりがいいのかもしれない。確かに踏み込みの度合いによっては大きな世話となることもあるだろう。甚だ自分よがりだが、頼ろうとしている人がいるなら、分かち合いたい、手を差し伸べたいという気持ちやら、心遣いが咄嗟に感性の解像度を上げる。そう思うことは所詮、驕りでしかない、のに。とはいっても、語弊はあるが、どんなことも自分事と捉えるのではないか。他者が踏み込んで、変容させていけることはなかなかない。これからの人生を歩んでいくのは、あなた自身だから。結局のところ、変えられるのは自分のみ。でも、高慢かもしれないが、些細なきっかけになれることを望んで、この世を生きる。
 第7号に書いたことの納得解をふと思いつく。右手は左手にはなれない。けれども、それぞれの手は逆の手にはできないことをやって、お互いに助け合い「手」というものを成している。私たちは一人ひとりで歩んでいくものの、一人の力では何もなし得ない。そう、自分のみならず他者とのあわいに生きている。だからこそ、右手と左手のようにお互いに助け合って、生きていくものではないだろうか。
 ドラマ『マイ・セカンド・アオハル』を観て、問いを深め、そして自分を見つめる。

믿음이라는 열쇠로 사랑의 상잘 열어
信頼という鍵で 愛の箱を開けて  (김태우『사랑비(愛の雨)』)

🎵 人生いろいろ。人の色もいろいろ。対話を楽しもう~ 🎵
 
【Color 74】学生(高校生)の頃に友だちに数学を教えていたときと、今私たちに教えるときとで、考え方や伝え方が同じ点、違う点はありますか。
【A】3年生からこんな問いをいただきました。ありがたいことです。その場で少し考えてみましたが、何を答えていいのか分からず迷いました。今まで、不思議なことに、このような問いについて考えたことがありませんでした。過去と現在をともに見つめる問いであるがゆえに、とても難しいです。でも、良い機会をいただいたので、自分に問うてみました。空を見上げつつ。
 考え方、伝え方のどちらも学生のときと今では異なっていると思います。「分かってほしい」という根本は同じでしょうが、やはりたくさん考え、より良い方法を模索しながら教えてきた積み重ねがあるので、考え方はだいぶ異なりますね。授業でもそうですが、日常的というか、具体的なことをもとに、伝えるときには例えることが相当多くなりました。黒板の使い方、話し方も違いますね。
 高校2年生のとき、国際数学オリンピックの問題を見ていたら、「どうやったら数学できるようになるの?」みたいな感じで、(私と正反対で)国語ができる子に質問されて、「だって、問題文に答えが書いてあるじゃん」と答えたら、「じゃあ、この問題解いてみてよ」と言われて、困ったことを覚えています。高校生が解けるレベルとはいえ、さすがに超難問ですから、無理でした。我ながら阿呆な返答をしたものです。後悔先に立たず。でも、それで目が覚めたので、転機だったかもしれません。進学校にいるからといって、誰もが数学が解けるわけではない。これで教え方も肯定的でないといけないと悟りました。そして、分からない子に対して、分からないことを認めてあげて、懇切丁寧に教えてあげようと。見下していたわけでもないのに、この無分別な回答によって自分の驕りを知るに至り、もっと勉強しないと教える(伝える)ことはできないと思いました。
 それ以降、教科書は2日間で読み終え、あとは独学で問題集を使って勉強したので、ほぼ自己流なのです。その中でも、『大学への数学』(東京出版)は一番利用した教材です。当時は、解法に関心度が高かったので、どうしてそういう考え方をしたのかには至っていません。自分が理解した方法をありのままに説明してきたことが多いです。本質的なことなど触れる余裕もないですし、考えたこともあまりなかったですね。ただ解くことだけに執着していました。自力で解けることに酔っていたともいえます。だから教員になってから、教えることの壁にぶつかりました。今でもぶつかりっぱなしですが。
 自分が解けることができれば、他者に伝えられる(教えられる)わけではありません。それは別次元です。そういう意味では教えることの方が何倍も難しい気がします。
 3年生のとき、私が憧れる先生の授業を受けていた子が、私に問題の解き方を質問してきました。今でもその問題の一部を覚えています。次のような問題です。
 次の方程式が実数解を持たないことを示しなさい。
   x^4+x^3+x^2+x+1=0
 一晩考えて、その子に解法をノートに書き、渡したのですが、授業でそれでは足りないと指摘されたそうです。何が正しかったのかは未だに分かりません。でも、私が解いたことをその先生は見抜いていました。まじで驚きです。教えてもらってもいないのに、存在を知ってもらえていたことが何よりも嬉しかったですね。
 でも、憧れた人と同じことを目指していては、成長はありません。それを痛感させられました。自分にしかできない道を歩むことができたらいいなと思う日々。

2023.11.10

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