「憧れ」という距離で
休日。お気に入りのパン屋へ。家でいろいろしていたけど、まだ間に合いそう。いい日になるぞ。それに明日は大好きな自担の舞台を観る。
大好きな曲を口ずさんで車を走らせて、好きな場所に行く休みの日が好きだ。
急に電話が鳴る。Bluetoothの音楽が止まる。車の表示では誰からかわからなくて、停車。
「今日の朝、◯◯さんがお亡くなりになりました。」
それは自分にとって身近な方の名前だった。あまりにも信じられなくて、つらくて。電話主の、神妙な空気に、「わかっていない」のに「わかってしまった」みたいに頭が働かなくなった。
その人のことを知らない友人に、誰かに、そのつらさを伝えたかったからなのか無意識に「身近な方が」という言葉を何度も選んでいた。
たしかに私はその人を知っていて、その人も私を知っている。でも、親密というわけでもなく、その人にとっての私はちっぽけなものだったはず。
それにもかかわらず、亡くなられたことを知ったときに、「ああ、もっと話をすればよかった」と思った。私なんかが憧れの人に話をすることが、その人にとって何になるわけではない。それでも。
「あの言葉に私はこう感じた」とか、「私はこういうところに憧れている」とか。そんな話をすればよかった。
その人のどういうところに憧れていたかというと、「言葉の届け方」だ。
私は数年ぐらい前から、「言葉の選び方」によってなんとなく人の好き嫌いが分かれるという感覚がある。同じ場面に出くわしたときどんな言葉を選ぶかに人柄が表れるような気がする。
それは日常会話、LINE、いろいろなところで、ふとしたときにも感じる。
それなら、"誰かに届けたい"と思って選ばれた言葉ならなおさらだと思う。
いろいろな表現がある中、言葉を使って、わかりやすく相手に届けることは結構難しい。現に私が今苦労しているのは、そこだから。
わかりやすく、大切なところだけを残してそれ以外を削ぎ落とそうとすると、すごく陳腐な言葉に聞こえて、響かないことがある。だから、難しい。
なぜ相手に響く言葉を届けられるのか?
それが、憧れの理由でもある。
思いつくまま羅列する。
日頃の行動から生まれる説得力。
その場にいる全員に分かるように選ばれた言葉。
「私が、こう思っている」と「あなたにこうなってほしい」とのバランス。
最終的な判断は、聞き手に委ねるゆとり。
あーでもない、こーでもない。
その人と二度と話せなくても、「こういうときにあの人はこう語るのだろう」とか、「あの言葉にはもしかしてこんな意味があった?」とか。これからずっとずっと私は考えを巡らせるんだろう。
そしてまた、「もっと話がしたい」と思ってしまう。
そうしたい、と思わざるを得ない程に、わたしはその人からたくさんのものを貰ったからだと思う。
例えばグッとくる本を読んだ後。新鮮な輝きを放つ舞台を観劇した後。感じたことをどうにかして表現したい気持ちになる。
それと同じだ。
その人が誰かのために届けた言葉を、間接的に自分に当てはめて受け取っていた。
それは新鮮でハッとさせられて、なおかつ、ああこれが私の大事にしたいことだ、と振り返って噛み締めたくなるようなものだった。受け取ったものをとにかくカタチにしたかったのだと思う。
残りの人生あと何年あるのかな。
あと何日あるのかな。
私はあの人みたいに、誰かに響く言葉を届けられるだろうか。あの人みたいに、自分の人生を全て懸けるような何かに出会えるだろうか。
あの人みたいに。
「自分」をやり切れるだろうか。