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「もののけ姫」から対立について考える

昨日、久しぶりに「もののけ姫」を見た。最後に見たのは小学生の時だっただろうか。当時はアシタカに一目ぼれした記憶しかなかったが、大学生になって見てみると、改めてそのアニメーション技術の高さと内容の奥深さに感動した(ちなみにアシタカは相変わらず格好良かった。ジブリ、顔がいい)もののけ姫の感想は置いておくとして、今回はそれを見ている間に個人的に考えたことについて整理したい。

対立とは

ここで言う「対立」とは、「二つの反対の立場にあるものが並び立っていること」である。私は今まで、「対立は起こりうるものだ」という捉え方で生きてきた。言い換えれば、対立のない状態を基準とした上で対立の存在を認識していた、ということである。家族や友人との意見の食い違いや、経済と医療のバランスについて考える時など、日常の中のある部分では対立を意識することはあったものの、基本的には自分自身の存在を対立とは切り離されたものとしていることのほうが圧倒的に多かった。

私はその理由を、争いが身近になかったからだと考える。争いは対立の十分条件である。争いがある時、そこには必ず対立がある。私が過ごしてきた環境では国と国との戦争もなければ、食料や土地などの身近な奪い合いなどもなかった。一方、もののけ姫は全く別の世界である。人間VS自然、人間VS人間など、物語の中ではいくつもの争いが起こっている(人間とまとめてしまったが、もののけ姫には一つの異民族と四つの政治勢力が出てくると言われている)。対立するものの力が拮抗していると争いは続く。そしてどちらかの力が強ければ、もう一方は強い方の支配下に入り、争いは終結する。私の住む世界で争いがないのは、すでに争いが終わっているからである。人間が圧倒的な力を持って自然界に君臨するとともに、数々の争いの後に一番強いものが国を統一したことで、平和な環境が完成した。

さて、争いはないというのは今確認したとおりだが、対立はどうだろうか。もののけ姫を見ていると、どうしても心情的に人間側ではなく自然側に傾いてくる。そして、その感性のまま現実に戻ってきたときに、はたして自然やその中で生きてきた動物たちは、今どう考えているのだろうという疑問が残った。もし自分が森の住人だったならば、人間が好き勝手に森を切り拓き、汚染物質によって地球を変化させていることに怒り狂っていただろう。もののけ姫と違って今は動物と人間の争いはない。しかし、対立がないというのはまた別の話ではないだろうか。森に住むものと森を切り拓くものの存在という「二つの反対の立場にあるものが並び立っていること(=対立)」は今でも存在する。対立は争いの必要条件ではあるが、十分条件ではない。争いはなくとも、私たちはいくつもの対立の中で生きている。

そう考えると、肉や魚を食べることは決して当たり前ではない。本当は被食者と捕食者の間に争いがあるはずだし、私がさっき食べたチョコレートだってきっと違法な児童労働によって作られているものだ。私たちは本当は対立の中で生きているはずなのに、圧倒的な力の差があるから争いは起きず、対立に気づくことがない。それがもののけ姫を見て気づいたことである。

また、私たちは常に強者ではない。弱いものを疑問なく食らっている一方で、無自覚に戦うことを諦めさせられている面もある。日常生活において、何かをしたいという欲は、基本的には他者と対立するものである。例えば畑で野菜を食べたいと思った時、食べたい側の自分は育てている側の人と対立している。しかし法律で窃盗が禁止されているので、お金を中心とした等価交換によって野菜を手に入れるしかない。自分と相手の間に争いが起こらないのは、法律や倫理観という社会の圧倒的な力によって支配されているからである。

対立というのは当たり前に存在していて、争いが起きていないのは大きな力によって支配している・されているからにすぎない。対立を争いによって解決することは決して良いことではないが、自分たちの平和は過去の争いの上で成り立っているものであり、また、見えないだけで対立自体は確かに存在している、ということを自覚することが大切だと思う。そう考えることで、自分の存在がはっきりするとともに、周りと共生できていることに対してありがたみを感じ、また争いを起こさないためには良くも悪くも何かしらのアクションが必要なのだということに気づくことができる。

性悪説

「対立」というのはマイナスのイメージなので、対立していることが当たり前だというと性悪説に似たものを感じる。性悪説とは「人間の本性は悪であり、努力することによって善を獲得できる」という考え方だ。しかし、私は対立と性悪説とはイコールではないと考える。なぜなら、対立とは生きていくことと同義だからである。食べること、住むこと、何かを欲しがること、あるいは何者かであることは悪だとは限らない。その人が生きるために必要なことが、あるものの利害と対立する、これは善悪を超えた事実であり、どれだけ努力してもなくなるものではない。

万人の万人による闘争

人間は自然状態においては「万人の万人による闘争」とならざるを得ないとし、その状態を克服するためには個々の権利を国家権力に委譲するという社会的な契約を結ぶ必要があると主張したのはホッブズであり、私の考えはこれに通ずる部分があると考える。しかし、ホッブズが主張したのは人間社会においてのみであり、私の主張する自然VS人間の観点には適応されない部分がある。また、ホッブズが闘争状態を克服するために社会契約が必要だと主張したのに対し、私はその逆の、社会契約がなければ闘争状態になるだろうという考え方である。これらは一見同じに見えるが、前者が国家の権威主義を擁護したものであるのに対し、後者は国家の権威主義を当然とする世の中で人間の本来の姿を見つめなおそうとするものであり、最終的には全く逆の考えである。

アナと雪の女王2

これは余談だが、もののけ姫を見ていてふと思い出したのが「アナと雪の女王2」である。エルサは人とは違う力を持っていることを悩み続けており、2では自分のルーツと王国の過去を知るために旅に出る。最終的には彼女は氷の精霊だったことが判明し、アナは王女として王国を守り、エルサは精霊として森を守ることで姉妹で助け合いながら別の環境でそれぞれ幸せになるという結末だった(あまりにもざっくりとしすぎているので詳しいことは映画を見て確認してほしい)もののけ姫を見ていた時、村で生きていくアシタカと森で生きていくサンにこの姉妹が重なった。ただの感想なので特に意味はない。

まとめ

生きるということは、自分とその他の間に何かしらの対立が存在しているということである。対立が見えないのは争いがないからであり、争いを起こさせない圧倒的な強者は、ヒトという種であったり、特定の国であったり、社会的な規範だったりと様々である。
私たちは自分と周りの対立を自覚することで、他者との間に境界線を引き、自分の欲や意思をはっきりさせるとともに、共生のための努力をしていく必要があるということを自覚するべきだ。

とまとめてはみたけど、説明に納得しきれていない部分がある……とりあえずご飯なので締め。また時間があったら考えたい。

2020.8.13 初稿

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