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枝葉末節の枝葉b

「『点』で心を1つに集中し自己を見つめ目標を定める。『舌』でその想いを言葉にする。『錬』でその意志を高め、『発』でそれを行動に移す」

もし自分が現代っ子であったなら、「俺の子ども産めや!」を見習って、“一夫多妻制(一妻多夫制)”という価値観も、備えることが出来ていたかもしれない。

小学生の時にそのゆとりがあったなら、「こういう答えでなくてはならない」ことが理由で、他人に対し非情な振る舞いをすることはなかっただろう。

踏み出せば、そこら中に「言葉(答え)」が転がっている社会。
当時と今とでは、どちらが生きやすいのだろうか?
しかし、それは勝手な想像で、手にした「言葉(答え)」の数は、現代も昔あまり変わらない――?

今の方が、「言葉(答え)」が与えられ易いと、こっちが勝手に感じている理由は、インターネットの普及、それによるYouTubeを中心とした動画――その断片――、とSNS上にある吹き出しの房(ふさ)。
それと共に、自分自身、幼少期、人に対して、言葉を上手く操れなかったからというのがある。

たとえば、一つの班に4人のクラスメイトがいたとして、目の前に、まだ切り分けられていないショートケーキがあったとする。
「あたし、ママのお手伝いでしたことあるー」と一人のクラスメイトがナイフを掴み、横にいた別のクラスメイトが「下持つー」と銀色のアルミを抑えて、ナイフを持ったクラスメイトが切り始めるも、崩れたりして、キレイには切り分けられなかったりする。
そして、「オレ崩れてるところでいいよ」とアルミを抑えていたクラスメイトが、不格好ながら最も大きなショートケーキを皿に乗せると、「ありがと」とナイフを手にしていたクラスメイトが、最もキレイな形をしていたショートケーキを皿に乗せる。
残された2人の内の1人も「あたしの方が、からだ小さいからこっちでいーよ」と皿に乗せたのは、少し角は削れているもののイチゴが二つ乗っかっているショートケーキ。
「…………」大きくもなければ、キレイでもなく、微妙なイチゴのショートケーキを皿に乗せる僕。
誰かを「悪い」と言うほどには悪くはなく、これが「反則だ」と言うほどにはズルくは見えない。
そんな原風景。

「誰が一番キレイに切れるかの話し合いもなく独りでに切り始め、崩れていたとしても量が多かったり、小さめだったとしても沢山のイチゴが入っていたりする。それぞれにそれぞれの理由はあるだろうけど、選び方は選び方で、選び方を決めた後に選ばないと公平ではないんじゃないかなあ?」か「…………」。

その状況を丁寧に描写する以外の言葉を知らないから、その状況が丁寧に描写出来ないままに時間が進んでく。
そんな自分にとって、テレビから聞こえてきた――
「自分、嫌らしいな〜」
ダウンタウンの浜田さんの言葉。

初めて気付いた。
こういう時は
「自分(ら)、嫌らしいな〜」
と、言えばいいんだ――と。
「悪(い)」でも「狡(い)」でもなく、「嫌らし(い)」。

今の自分においての価値観上も、ショートケーキのたとえで登場した3人のクラスメイトが、「悪かった」り「狡かった」りとは思わない。自分が、「弱かった」り「拙かった」りが、答えだ。
だけど、一つの対処法を識ったことで、気持ちは楽になった。言いたいことも、少なからず言えるようになった。

そんな過去を踏まえながら言えば、ないよりあった方がいいのが言葉なのか?
けれど、溢れるほどあった場合、それは“ないよりあった方がいい”に当て嵌まるのか――?
自分が現代っ子に戻ることはもう無いわけで、それを比較的クリアに識ろうとすることは、とっても難しいっす。

「『錬(意志)』が強ければ『発(行動)』に足る。
『錬』はややもすると頑固に変わり間違った考えを正そうとする柔軟性を失ってしまいます。それゆえに心が充実しないうちは、ひかえた方がいい」

「うるせーやー。ズシちゃうっちゅーねん」

ちなみに。
「嫌らしい」という言葉(答え)を知ってからも、「自分(ら)、嫌らしいな〜」を使ったことは、ほぼない。いや、ひょっとしたら一度もないかもしれない。
こんなもの、型を気にしていたら出てこない無手勝流の殺法(言葉)。思考を気持ちが追い抜いてる。
浜田さんのように下品だったわけでも、まんまイジメっ子気質だったってわけでもなかったからさあ俺。

一応。
「点(テン)」「舌(ゼツ)」「錬(レン)」「発(ハツ)」が「燃(ネン)」。
「纏(テン)」「絶(ゼツ)」「練(レン)」「発(ハツ)」が「念(ネン)」。
(SNS上にある)吹き出し(💬)の房(🍇)。

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