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あのちゃんとあみちゃん おまけでベッキー

「ハーメルンの笛吹き男」という童話がある。
おじさんだか音楽家だか妖怪だかが、町中を笛の音色を響かせながら練り歩くと、その音色に惹かれて子供たちが列をなし、町から子供がいなくなるという、何の教訓が秘められていたかまでは知らないが、怖いお話である。

朝、起きてまずすることは――?
オシッコ。

ただ、そのまま、また眠ることもあるので、毎度、毎度「起きた」と言い切れるものでもないし、そもそも、起きたあとにオシッコをしているのか、オシッコをしたいから起きているのかと考えると、意味があべこべになっているような気もする。

頭が悪いので、オシッコがしたくて起きて、また寝ると、その次を想定することが出来ずに、休みの日は、それが繰り返されたりする。
だから、「起きたあとに――」の正しき意味合いとしての行動規範が、自分にはないのかもしれない。

朝起きて、まず豆から挽いたコーヒーを淹れて、その間に顔を洗い、モダン・ジャズを聴きながら、今日のネクタイを選ぶとか――。
朝起きて、まず犬と戯れたあと、ガーデニングに水をやり、焼き上がったトーストをかじりながら、今日のラッキーアイテムを確認するとか――。
そういう“大人”が、自分にはない。
ただ、催したから、おずおずとそれを排泄する――。

だが、それでも、立ち上がり動くことで、流れ出す“日常”もある。
たとえば、部屋の隅――時に中央に――散乱していたごみに違和感を覚え、ひとまとめにしたり、以前ひとまとめにしていたごみを、指定された場所に捨てに行ったり。
何だかんだで玄関の外側に出ると、沸き立つ内側もあり、自分が子供を呼ぶのではなく、自分が子供に呼ばれているような気になる。

公園の方角から「わーわー」言ってる子供どもの声が聞こえると、単純に「遊びてえなあ」と思う。

朝、起きてまずすることは、オシッコをして、そのあと公園に行き、見ず知らずの子供らと遊ぶ――。
内なる自分に従えば、こうなる。

仮に、この行動規範が強過ぎるものだったとしても、「挨拶してえなあ」と思うこともある。
公園に散歩に行ったら、見ず知らずの人とすれ違い「挨拶」――ではなく、「挨拶」がしたいから、とりあえず公園の方へうろうろしに行ってみようか……。
ドラクエだって、宿屋でHPを満タンにしたあと、マップに出るまでの間に、町の人と、同じ吹き出ししか出ることのないモブに対してだとしても、1人、2人、気まぐれで「はなす」をしたりする。

寂しいわけではない。「イベント」が足りないような気がするのだ。
と、同時に、先週「人志松本の酒のツマミになる話」で菊地亜美さんが話していた内容を思い出した。

来日して困っている外国人観光客に対し、どの程度手を差し伸べるかという話で、自ら困っている観光客を探しに、わざわざ駅へと出張ると言っていた。
善意の押し売りではない。実際、外国の方が菊地さんをあてにし、列をなすという。

その話を思い出して、公園に出張りたくなる自分と、同じだと思った。
しかし、はて?とも思う。
菊地さんの相手は外国人で、自分の対象は日本人が前提となる。果たして、喜ばれるかと言えば……どうだろうか。

菊地さんは、その放送回で子を持つ親として、エレベーターが開いた瞬間、不審者に襲われることに備え、子を守るために鍵を扉側に真っ直ぐに向けて待機しているとも言っていた。
それを聞き、その行動を唯々諾々と受け入れられないと感じたのは、その切っ先が自分に向けられているような気がしたからだろう。

ふらふらと公園に足を向けたくなる自分の精神性は、「起きたあとにオシッコ」ではなく「オシッコをしたいから起きた」というあべこべさに通じている。衝動としての違和感はないが、行動としては逆転している。
そんな矛盾が、菊地さんの想定する“不審者”に該当してしまっているように感じる。
正直、「衝動」と「行動」に矛盾を感じない菊地さんが羨ましくてしょうがない。

人見知り、または“怖がり”という意味では、先週のオールナイトニッポンのスペシャルウィークで、ゲストに来たベッキーさんのX(旧Twitter)を、群を抜きしょうもないとしてミュートしたあのちゃんも、LINEの未読が何百件と溜まるらしい。
電話も嫌いらしく、連絡してこない人間関係を好むとのこと。

気持ちはわかる。
電話は文面より一段階億劫になるし、人間関係を完全に没交渉としたい時期もあった。
ただ、現状は少なくとも、人間関係を断ちたい時間と見ず知らずの人間に「挨拶だけ」しに行きたい自分と、まだらな精神性の元、生きている。
だから、たとえそれが良くないことだとされていたとしても、一つの方向性に、パーソナリティー(人格、性格)が集約されている人間の方が生き易いような、妙なないものねだりがある。

ただ、だからこそ、ベッキーさんのことを「ベッキー」と呼んだり「ベッキーさん」と呼んだり、さらに言えばオープニングトークで伊集院光さんのことを「伊集院」と呼んだり「伊集院さん」と呼んだりするラジオパーソナリティーぶりのあのちゃんが好きだ。
これを「失礼」とする向きもあるようだが、今後も「まだら」な放送を、是非続けていってもらいたいと願う。

ちなみに、伊集院さんは「『ラジオの人』はという人」で「スパイスおじさん」で「カバおくん」でもあるらしい。
ベッキーさんは、「緑の魔術師」で、なおかつ「ノゴーン・ベキ」らしい。
ベッキーさん自身は、「タレント・ベッキー」であり「ベッキー♪♯」であり「ベッキイ」であり「ベツキイ!!!!」であり「別所絹子」であり「べき子」であり「バラエティータレントなのに色々なものにメッセージ性を乗せてしまうイタイ奴」らしい――とのこと。

ついでに。
ベッキーさんは、どうして露出が少ないままなのだろう?
妻や母親である時間を多く取りたいというのが本人の意向であるなら、他人が口を出すことでもないが、メディアに出たいのに出られていないのだとしたら、正直疑問に思う。
前提として力のあるタレントだと思っているので、川谷絵音さんとの不倫が、未だに影響しているということになる。
完全実力主義で考えるなら、ベッキーさんほど器用な女性タレントは、その後現れてはいないだろう。たとえそれが器用貧乏であったとしても、十徳ナイフが如く利便性があったはずだ。

だが、個人的には「センテンス スプリング」こそが、タレント・ベッキーの残した作品としての最高峰だと思っているので、現在、守りに入り過ぎてしまっているからが理由で需要が細っているのだとしたら理解できる。
——自分からは出てこないセンス。
「迷言」ではなくて「名言」だと思っている。

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まだ10代も前半だったろう頃に開設した「べき子製鉄所」なる中身スカスカのHPを、今こそ再開発して欲しい。

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