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テレビがやって来た日

 小学2年生のとき、実家にテレビの撮影隊がやって来た。その撮影は、青森県弘前市出身の小説家の長部日出雄さんが津軽民謡の「弥三郎節」のルーツを探すNHKのドキュメンタリー番組だった。
 長部さんは父の母校の弘前高校の先輩で、ちょうど長部さんが卒業された春に父は入学しているので、高校では一緒の時期には通ってはいなかったけれど、父の活動していることに興味を持っていただいていたり、津軽を題材に小説を書こうと故郷に帰郷していたときに、津軽のことに詳しい人に話しを聞きたいということで、どうやら父を紹介されたらしい。
 余談ながら、長部さんと共に無頼派の作家と呼ばれていた野坂昭如さんと雑誌で父が対談をすることになったのは、長部さんが父のしている活動を親交の深かった野坂さんに話したことで、父と直接会って話しを聞きたいと依頼があり実現したようだ。日本全国の農業青年の活動団体で会長をしていたり、農民運動家として活動していた父は、わたしがこどもの頃は東京に出張が多かった。ただただおっかない父だったから、父が家にいないと緊張感から開放されてホッとしたものだ。大学時代と20代のサラリーマンとして働いた時代を過ごした東京にいるほうが、父はもしかしたらやりたいことがやれて楽しかったかもしれない。
 当時、政府の一方的な減反政策などで農業を営む人々が振り回され、米を作れない、作っても売れないため、大黒柱の男性たちは農業ではなく都市部に出稼ぎ労働に行かなくては暮らしていけず、周りを見渡しても家族は長年ばらばらに暮らして、たいへんな状況に追い込まれて過ごしていた。
 また戦後の食糧難から学校給食は、脱脂粉乳など栄養の乏しい給食だったため、北海道の酪農家たちに声をかけて、こどもたちの栄養源となっている学校給食に、日本の農家が育てたお米のごはんと、脱脂粉乳ではなく牛乳を導入してほしいと政府に働きかけて実現することになったそうだ。父が死んだとき、無宗教だったので葬式など一切しないでくれと生前の遺言で、そのまま希望していた地元の国立大学医学部の献体に向かったのですが、当時の国会議員の第一秘書をされていた方が、ご焼香にいらしてくださり、父の活動のことを詳しく話してくださって、亡くなってから初めて父のやってきたことを知った。
 家庭では独裁者のような人だったので、こどもの頃は毎日が本当に苦しかった。厳格な父しか知らなかった。当時から共働きの家が多かったため、保育園を地元に誘致して保育園が建ったことや、県の森林を守る山の仕事を実家が長くやっていたのも、長い目で見ると住んでいる人たちの助けになることを選んでいたんだなと大人になるとわかる。
 何度も観たジブリ映画の「火垂るの墓」は、多くの方がご存じの通り原作者の野坂昭如さんの実体験を書かれた小説が原作だ。野坂さんが、父の活動に共鳴するものが、きっとあったのかもしれないと思う。
 ある年の帰省していたときのことだ。部屋の掃除をしていた父が、その野坂さんとの対談した記事が載った雑誌と、長部さんが父のことを書いた新聞連載の随筆の記事が何十年か振りにひょっこり出てきたとわたしに渡してよこした。すぐ読んで、これは父が持っていたほうがいいと思うと返したら、別にそんなものはいらない..と言われて、強引に渡された。
 週刊誌はどこにやったのか見つからない。新聞記事の切り抜きは、母が持っていたほうが失くさないと思って返した。父に週刊誌を渡されて、持っていたカメラで顔写真や対談風景は撮影した。そのあとに東京に戻り、焼き増しをして兄弟にも渡した。実家に送った写真は残っているけれど、雑誌そのものが見つからない。父は、亡くなる前に誰かに渡しておきたかったのかもしれない。いい加減な対応が悔やまれる。
 長部さんの直木賞受賞作「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」は、津軽書房という弘前にある小さな地方出版社で出版された。
 直木賞・芥川賞が地方出版社から出版された小説で受賞することは前例がなかったことで、東京や中央の大手出版社で出版された小説でなくても、作品が素晴らしければ選ばれるということが画期的な出来事だったと想像できる。
 父は地元の小学校を卒業すると、弘前市にある私立男子校に入学する。一緒に暮らした祖母が弘前市の出身なので、父は母親の兄弟の弘前市内の家へ下宿させてもらったり、津軽書房を起こした高橋さんのご実家にも下宿をしていたときがあったらしい。
 父が学生の頃、のちに津軽書房の社長になられた高橋さんは、とにかく本を読みなさいと父によく話してくれたそうだ。無類の本好きで、実家の敷地にある作業場の中に図書室のような書庫を作ってしまうほどで、家族にとってはたいへんな思いをさせられた存在ではあったが、大きな病気をしてからだも不自由になったけれど、死ぬまで好きな本を読んでいられたことは幸せだったと思う。
 こどもたちにも、本だけは惜しみなく与えてくれた。いまだに語りの活動を続けているのは、こどもの頃に父の贈ってくれた故郷の方言で書かれた民話の本に魅力を感じたのがきっかけだ。明治生まれの昔ばなしを話せるおじいちゃんおばあちゃんを訪ねて歩くクラブを、小学校の先生にお願いをして作ってもらって活動したのが始まりだ。こどもが見よう見まねで語りだした昔ばなしを40年も飽きずにやっている。
 津軽民謡「弥三郎節」は、嫁いびりの歌だ。当時の女性の置かれている立場の弱さだったり、女性の我慢や犠牲で家というものが成り立っているのが歌詞から伝わる。はた目から見ては良い家に嫁いでいるようでも、いざ嫁の立場になると、たいへんな苦労を重ねてきた母をそばで見てきたから歌詞が重なる。
 津軽の女には負けない底力がある。津軽に伝わる刺し子のこぎん刺しにしても、雪国の風土を活かした保存食や料理にしても、女性の残してきた仕事は、ていねいで美しく遊び心にあふれている。
 民話を好きになったのも、真面目に生きていても虐げられる者へのなぐさめや、苦境や逆境をユーモアで跳ね返す大胆さや、希望が感じらる温かい話しが多いこと、人が持つ祈りの気持ちや清々しさが存分に描かれているからのような気がしている。
 字を読み書きできなかった人たちが、語って聞いてまた語って、その繰り返しで伝わってきた民話の豊かさや奥深さに畏敬の念を持つ。
 すっかり横道にそれてしまったが、東京からやって来たテレビの撮影隊の皆さんの仕事をしている姿や、小説家という人を初めて意識したあの日の景色は、こども心に光って見えた。

※雑誌に掲載された野坂昭如氏と父の写真。今日は父の誕生日。厳格な父が最晩年は丸くなって、わたしが帰省することを楽しみにしてカレンダーに“美奈子帰省”などと書きこんでいたらしい。疎ましがらず、もっと色々な話しを聞いておけばよかった。

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