石ころ
こどもの頃、歩き遠足は近くの海だった。小学生の頃はクラスでも身体が小さいほうだったので、海までの砂地の道は歩きづらく、歩いても歩いても目的地に着かなくて途中で泣きたくなった思い出がある。
日本海と陸奥湾と太平洋に囲まれた故郷の海は大間産のマグロでもよく知られているが、雪国で厳しい冬ではあるけれど寒いからこそ身が締まり油の乗ったおいしい魚が育ち、海の幸に恵まれている。
成人を迎えた頃、帰省すると同級生や幼なじみの友達と集まるとジープで近くの海まで出かけた。海には入らず、海を眺めたり波打ち際を歩きながらおしゃべりしたり、綺麗な石ころや貝殻を拾った。
いつの年だったか、石ころを探すのに夢中になったときがあった。友だちも一緒に探してくれて、これはどう?と珍しい石ころや綺麗な石ころを見つけては見せあって楽しんでいた。帰る頃には、ビニール袋が破れそうなくらいずっしりと重たかった。
家に帰って砂を落とし、海水を洗い流してから乾かした。寝室に使っていた部屋の障子戸のへりに一つ一つ石ころを並べてみた。
波打ち際で濡れていた石ころは、模様も色もはっきり見えて、ころころと転がって可愛かった。部屋に並べて見ると、落ちついた渋い色の石ころに変わっていた。何十年も、長ければ何百年とかけて石ころになるのだから、こっちの渋いほうが本来の姿だろう。
海にいる石ころは生命をもらったばかりの赤ちゃんだとしたら、陸にいる石ころは経験豊かな大人に見えた。
ガラスの破片が長い年月をかけて、丸く石ころのようになったシーグラスも深い緑や水色や白っぽいのや色もさまざまで、波打ち際で見つけるとキラキラと光って見えて宝石を見つけたようなうれしさがあった。
石ころの前書きが長くなったけれど、今週の金曜日に古書店に寄ってタイトルが気にかかり手に取った「いい感じの石ころを探しに」という本を立ち読みして、ペラペラと流し読みしていたら最後の章で、“日本で石ころの聖地”と呼ばれている場所があると書いてあった。それは青森県であることと、特に津軽地方なのだそうで、自分がこどもの頃に歩き遠足に行ったり海水浴に行った場所だったり、ジープで友達と海を見に出かけた場所の辺りがまさかの宝庫であると初めて知る。本を読みながら耳が熱くなってきた。
そういえば、「津軽錦石」と看板を掲げた石材店などがあったよな‥と昔の記憶とがっちり繋がり、魅力的だと感じて拾い出したら止まらなくなった石ころの思い出を何十年ぶりかで思い出した。
拾った石ころには後日談があり、翌日も海に行った友達のみんなと会ったら、
「海で拾った石は、どれも魂が入っているからあまり拾わないほうがいいって家の人が言ってた」
もうひとりの友達も同じことを言われたと話してくれた。
家に帰って並べた石ころを眺めると、たしかに一つ一つの個性が強く生命力を感じる。あの日はなぜだが石ころの魅力に取り憑かれたように拾ったけれど、自分には手に負えないと怖気づいて、別の日に石ころを海に返しに行った。
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