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聖地にさそわれて


 ずるずると引っ張ってここまで来てしまった。勇退を間近に控えた6月中旬、ようやくキハ85系「南紀」に乗ることができた。高山本線の「ひだ」は新型車両に置き換わってしまったが、「南紀」が走る紀勢本線の、白砂青松の車窓も魅力的だ。もっとも私は腰が重い。今回のようなきっかけがなければ自宅から数百キロも離れたローカル線なんて乗る機会がないだろうと思ったことも、その動機のひとつである。

 角型ヘッドライトにコルゲートの側面というキハ85系の外観は、バブル期に登場した車両にしては大人しい。一方、内装は豪奢で、普通車でも絨毯敷きの床や、腰掛けると深く沈む座席は当時の雰囲気を今に残す。そして何より、窓の下辺が座席の肘掛けまで来る大きな窓が、車両の愛称「ワイドビュー」を名にし負う。

 紀勢本線のハイライトは、紀伊山地に分け入る多気から先の区間だろう。清流として知られる宮川を右に左に見ながら、新緑の中を進む。標高197mで紀勢本線の最高地点である梅ケ谷駅を通過すると一気に駆け下り、次の紀伊長島駅に着く頃には熊野灘のすぐ横を走る。木々の間から覗く海岸の砂は、見慣れた黒っぽいものではなくクリーム色。車窓から目が離せない。

 写真の「南紀」は波田須駅近くの棚田から撮影した。この付近は「凪のあすから」(凪あす)というテレビアニメのモデルになった”聖地”。海と陸のそれぞれに人が暮らす世界を舞台に、中学生らの恋や成長を描いた良作だ。撮影の合間に一帯を歩くと、漁港を中心に放射状に集落が広がっていることが分かる。生活と海が密接にリンクした風景に、作品の世界観を重ねる。

 余談だが、「凪あす」は筆者が高校に進学するタイミングで放映されていて、自身もリアルタイムで視聴していた。今になって気になるのは、登場人物たちと実年齢がほとんど一致していた当時、甘酸っぱい青春が描かれた「凪あす」と、趣味三昧の生活を比べ、懊悩することはなかったのか…ということ。往年のスター車両の引退に際して、当時撮影したたくさんの鉄道写真に問いかけてみる。


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