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僕もあなたも、とっくに始まってるんだ

人生は、時に物語で例えられる。

物語には主人公がいるわけで、自意識過剰と言われようとナルシストと呼ばれようとも、自分の人生の主人公はやっぱり自分自身だと思う。そしてその一生でどんな物語を描くとしても、筆を執り、その作品に責任をもつのはやっぱり自分なんだろうと思いながら生きてきた。

だけどその一方で、いつもどこかで自分の人生に当事者意識を持てない自分もいた。とくに社会人になってからは、自分や自分の人生を、他人事のように眺めている感覚があった。

一つ、またひとつと選択を繰り返し、何かを掴んでは捨ててここまでやってきたはずなのに、辿り着く場所はいつも「仮の場所」だった。ここは自分の居場所じゃないと、いつも思っていた。

きっと僕はそうやって、「僕の物語はまだ始まっていない」と自分に言い聞かせていたのだと思う。いつまでたってもパッとしない現実を、自分の物語だと認めたくなかったのだと思う。これはまだプロローグなんだと思っていれば、鏡に映る冴えない自分を認めずに済むから。それは、筆を執ることからも責任を取ることからも逃げ続けた僕が、なんとか自分を肯定して生きていくために身につけた処世術とも言えた。

2017年1月、退職を決めた背景には、そんな己の醜さを断ち切ってやりたいという気持ちもあったと思う。10年以上追いかけたミュージシャンの夢を諦め、大企業に入ることを自らの意思で選んだくせに、「こんなの僕の人生じゃない」と文句を垂れ流す自分。そいつを真正面から捩じ伏せて、延々と繰り返してきたプロローグを終わらせる。そう決意しての退職だった。

退職後は、ゲーム会社を受け始めた。ミュージシャンにはなれなくても、毎日死んだような目で営業をしていた自分と比べたら、「ものづくり」ができるだけでじゅうぶん幸せだと思った。書類選考は不思議なくらい受かり、浮かれて家族や恋人、友達に報告した。

だけど、次第にお祈りメールが届き始める。受けて、落ちて、また落ちる。第一志望群が全滅したとき、もう7月になっていった。「なんとかしなきゃ。」僕は焦燥感に駆られながら、聞いたこともない小さなゲーム会社の履歴書を書き始める。そんな時、ある考えが頭をよぎった。

「よく知らない小さな会社で頑張れるほど、僕はゲームを作りたいのか」

すぐに打ち消そうとしたけれど、遅かった。頭の中には「NO」の二文字が浮かんでいた。そして、その後間髪入れずに突きつけられた言葉で僕の人生は動き出すことになる。

「じゃあお前、ほんとは何がしたいんだよ」

何度も問いかけたはずのこの言葉が、この時は尋常じゃない深さまで突き刺さった。きっと、焦りと不安で、心がほとんど折れかかっていたからだと思う。その言葉の切っ先はかつてなく脆くなった僕の心をたやすく貫き、ついに核心に届いた。砕けた核心から、本音が零れた。

僕は、音楽の夢を諦められていなかったのだ。僕はまだ、音楽の夢で自分の物語を描きたかったのだ。それ以外何をしてたって、僕にとってはプロローグのままなんだということを、つくづく思い知ってしまったのだ。

恥ずかしいよ。大人になって、社会人にもなって、子どもの頃からの夢がまだ忘れられない。そりゃ恥ずかしいよ。でも、仕方ないんだよ。そうなんだから。青春全部捧げてしまったから。下手くそで不器用でも、自分なりに全部ぶつけてしまったから。そういうものは、生きる意味になってしまう。

そんなものに、経験もないゲーム作りへの熱意が敵うはずがなかった。僕の人生そのものだった「音楽作り」への情熱に敵うものなど何もなく、僕は就活の意欲を失った。

そして同時に、今の僕に、今からミュージシャンの夢を目指す勇気がないことも思い知った。ちっぽけな身の丈を、等身大の小ささを思い知って、8月の夕暮れ、シャワーを浴びながら泣いた。ゲームへの熱意も消え、音楽へ挑む勇気もない。僕にはもう、選択肢が浮かばなかった。

僕はそこで初めて、夢を諦めた過去も、スーツを着て東北を駆け回ったサラリーマン時代も、全部全部プロローグでもなんでもなく、お風呂場で顔をグシャグシャにしているこのみっともない現実が、今の僕のありのままの人生で、物語なのだと心の底から認めることができた。あらゆるプライドが削げ落ちた気がした。

その2ヶ月後、かけがえのない親友の思いやりで今の僕の仕事がスタートする。僕は彼の勤める編集プロダクションで、「言葉を使ったものづくり」をするライター・編集者になるべくアルバイトを始めた。24歳、アルバイト。固定給なし。しかも仕事は、月に1本あるかないかという話だった。

でも、僕は挑戦させてもらった。何のスキルも経験もない僕を打席に立たせてくれたことが、うれしくて、ありがたくて、役に立ちたいと思った。

そこからは、ひたすら努力した。胸を張れるだけの努力をした。もともと作詞が好きだった僕には「言葉を使ったものづくり」がとても楽しかったし、親友や先輩たちがいることがものすごく心強かったし、一番の本音をいえば、頑張れることがあるというだけで、ただただ幸せだった。

そして今月、僕の書いた記事が2本、世に出る。家族、恋人、ともだち、先輩たちがいたからこそ叶った奇跡的な出来事だし、そう思うからこそ、やっぱりうれしくてたまらない。もちろん大事なのはこっからだとわかっちゃいるけど、やっぱりいったん、すごくうれしい。

これからどうなるかなんて、もちろんわからない。うまくいく保証はないし、生活すらまだ成立していない状況だ。だけど僕は、そんなみっともない僕のままでも、下手くそで不器用で冴えない男の物語を少しずつ描き始められたことが、確かにうれしい。

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人生は時に、物語で例えられる。

自意識過剰と言われようとナルシストと呼ばれようとも、自分の人生の主人公はやっぱり自分自身だと思う。そしてその一生でどんな物語を描くとしても、筆を執り、その作品に責任をもつのもやっぱり自分なんだろう。

もしあなたが今、自分の人生に当事者意識を持てず、終わりのないプロローグを彷徨って苦しんでいるのなら、自分に問いかけてみてほしい。

「じゃあお前、ほんとは何がしたいんだよ」

「今のお前に、それは叶えられるのか」

自分が今一番叶えたい希望と、それを今の自分に叶えられるかどうかをはっきりさせること。これがきっと、くだらないプライドをぶっ壊して僕たちを前に進めてくれる。「理想の自分」と「今の自分」を同化させて自分を過大評価してる甘ったれた自分をぶん殴って、目を覚まさせてくれる。それがもし、子どもの頃からの夢に決着をつけることを意味していても、そのダメージは背負うべきだ。その傷は、きっと僕たちを進ませる。

みっともない現実で、ちっぽけな身の丈でいい。そいつがそっから頑張っていく冒険譚を、誰もが描いているんだ。僕もあなたも、生まれた時からとっくに始まっているんだ。



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