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学際について:『総合ー人間、学を問う』開催直前

おはようございます。MLA+研究所の鬼頭です。

「公開収録」のお申込みは本日まで、となります。
興味がある方はお忘れなきよう。

noteというのは、ナッジが効いているのか、閲覧されているよ、とか、何日連続投稿したよ、とか、やんわりと投稿を続けてね、というメッセージが随所に出てきますね(それで書きたくなる人がいるなら、プラットフォーム的には成功です)。
因みに、連載を重ねるごとに閲覧数は減っています(苦笑)が、読者がゼロではないようなので、まあよしとします(言うまでもなく、マーケティングとしては、失敗です)。
字数が多くなったのと、(私の主観として)段々はなしが難しくなっている、ことも影響しているのかもしれません。
世界ふしぎ発見!展なるものを見にいったとき、この番組は当初、視聴率的には振るわなかったそうですが、小手先のテコ入れをしなかったというインタビューが流れていました。
小手先のテコ入れは、コンセプトがブレるので、テレビ番組ではあんまり成功しないようです。

さて、前回で本編は終わっているので、”余談”となるわけですが、今日のお題は”学際”です。
「総合人間学」に限らず、聞き覚えのない分野というのは、多くの場合、学際的です。

シュムペーターという人の「新結合」、聞き覚えのある言葉で言えば、「イノベーション」というのは、ゼロからの創造というよりは、組み合わせを変えることです。
最近だと、「創発」とも呼びますかね。

息詰まったときに、人は何かを組み替えることで、その場を凌ごうとします。
息詰まっているから、新たに投下できるものが、そもそもないわけです。
くわえて、そういう時には「看板」も気になります。
課題解決型というのですが、「●●を解決しますよ」、「××に効果がありますよ」とアピールするのです(しかし、本当に解決して効果があるなら、遅かれ早かれ広まると思うのですが…)。

学際というのは、その意味では「諸刃の刃」であって、何となく異分野が集まるだけで、何か新しいものが出てくるような気がするのかもしれませんが、大抵そんなミラクルは起きません。
と同時に、学際自体が「目的」になると、何かが達成できていないのは、この分野の知見が足りないからだ、という考えになりがちです。
つまり、目的と手段が逆になるわけです。

もう1つ学際の難しさを挙げるとすれば、他の分野についてもある程度はカバーしていたり、フットワークが軽く、何でも興味が持てる人が、最低2人はいないと、いけません。
1人ではダメです。
その理由は簡単で、その1人のモチベーションが持たないからです。
だって、他の人は自分の関心にしか興味を持っていないが、その人だけは他の人に関心を向けている状態って、その人にとって話し相手になる人がいない、ということです。
だから、最低でも2人は必要だ、ということです。
学際には「分業」と「協業」の側面ー実はマルクスとアレントで正反対の意味になるのであんまり良い語彙のチョイスではありませんが、要は単に分担する場合と、交流する場合があるという意味ですーがあり、学際が息づまりを打開するのは明らかに「交流」の局面です。
けれど、実際には「分担」、せいぜい自分の分野を中心に据えた「改良」が関の山です。
『昼も夜も彷徨え』のマイモニデスのように、手放して旅に出るとはならないわけです。

MLA+研究所は最近ここ2年ほどちょっとご無沙汰ですが、最低1つは毎年、「共同研究」を組むことにしています。
そして、何人かの所員が言っていたことですが、研究成果自体よりも、研究プロセス自体に意味があったと考えることが多いようです。
つまり、そこで交わされる議論自体が面白く(脱線するからかもしれません)、当初考えていなかったところに行き着き、自分の研究にも反映されることに、どうもメリットを感じるそうです。
因みに、私がそうしろ、と言っているわけではありませんし、どう参加するかは、基本的に所員にお任せで、うちの会議は遅刻・早退がしょっちゅうです(が、一応抜けた時間を補う工夫はしています)。

ここで、話題を変えますが、「人間学」での学際の難しさ、というのは何だと思いますか?
あくまでも私の経験則ですが、人間「像」の多様さです。
「人間」について研究するとは言っても、「人間」という言葉が曖昧なので、そのイメージは、ある人の言葉を借りるなら、「茫漠」としています。
にもかかわらず、「総合人間学」を構成するために持ちよられた補助仮説となる諸学には、それなりに蓄積された確固たる「人間」像があります。
この「人間」像を緩めることが学際の1つの意義であるはずですが、諸学の「人間像」を強固にするための素材を他の分野に求める形での学際も成立し得るわけです。
その人の中で、「諸学の「人間像」を強固にするための素材を他の分野に求める」ことは自由にやって頂けばよいと思うのですが、問題はその学際の形を「総合人間学」の標準としてしまうと、その諸学を疑いない基礎とせざるを得なくなることです。
かと言って、色んな人間「像」が並立していて多様であるというだけでは、「総合」にはなりません。
そして、「人間学」にとっての補助仮説の1つ、1つが完全に「自立」してしまったら、敢えて「人間学」を掲げる意味は薄れます。
つまり、「人間学」として何をしているかのかは、分からなくなるわけですが、そういう中にあっても、補助仮説としての諸学は残っているため、その補助仮説内での探究を本来の目的だと取り違えるならば、実際に何かは研究されているので、何となく越境した学が等価に(AでもBでもCでも…でも構わない)併存している状態が維持されます。
しかし、併存しているだけで、決して「総合」はされていないわけです。

この連載では「人間学」というのは、「人間になる」ための、「人間であろう」とする学だと、私は考えるという書き方をしました。
私の中の「定義」ではありますが、学の一般的な「定義」ではありません。
近代の学問は、大抵「言行不一致」になることを問題視しないからです。
ここで、1つ補足しておかなくてはならないのは、理論と実践が一致しなくてはならない、という意味で、「言行不一致」と書いているわけではありません。
要するに、理論と実践が一元(統一)論か、二元論(別々にある)か、という問題ではありません。
ここで言う「言行不一致」というのは、あくまでも少なくとも両者は1つであれば当然、2つに分かれていても「連動」はするだろう、というはなしです。

化学だったら、別に「言行不一致」でもいいかなあと思わないこともないのですが、「人間学」ではやや困った事態を生じさせます。
つまり、現に人間であるところの自分と無関係に、客体としての「人間」が別にあるとは言えないし、そもそも自らが為し得ないことを、他の人間には「これが良い」、「こうすべきだ」とは勧められないだろう、ということです(因みに後者については、倫理学の要請でもある、と私は考えています)。

因みに、私はこの連載ではあまり強調してきませんでしたが、元々は「反ー”人間”学」です。
そう考える理由は色々ありますが、私とあなたが「同じ(共通部分のある)人間である」という意味を、私が厳密な意味では、納得していないからです。
どういうことかと言うと、緩やかにでも、私とあなたが「同じ(共通部分のある)人間である」ということが成り立たないなら、類としての「人間」という仮定が誤りとなるため、「人間学」を標榜する意味が無くなってしまうのです。
やや怖い話をしますが、薬を処方される際に、1日1回1錠とかって書いてありますよね。
勿論、(どの程度精密なのかは別として)、一応「治験」はされているわけですが、その人たちには問題が無かったとしても、運悪く自分には問題が起きてしまうということは有り得るわけです(あまりにその数が多いと、「薬害」になります)。
そもそも、身体的な違いが色々あるわけなので、どうして「一律」に「1日1回1錠」と書けるのかは、よくよく考えると不思議なことです。
対比するために、個々人に合わせた処方が元来である漢方を思い浮かべると良いのではないか、と思います。
その人を個々によく観察して、オーダーメイドをするわけです(が、漢方医の腕が悪いと、なかなか悲惨な結末になりそうです)。
「人間学」というのは、その意味で、人間「一般」の、人間であるならば成り立つ学知を追究するというのが、暗黙の前提になっているわけです。

ですが、ある仮定を置いたときに、「人間になる」ための、「人間であろう」とする学という意味での「人間学」は、もしかしたら成り立つかもしれません。
その「人間学」は、伝統的な「”人間”学」のままではいられないわけです。
人間になることとは無関係に、人間であろうとしない人間学というのは論理的には成り立つかもしれませんが、ここまで突き詰めてしまうと、「人間学」はそもそも成立しないと記述した方が分かりやすいはずです。
とするなら、(中身は色々あり得ると思いますが)「人間になる」ための、「人間であろう」とすることが「人間学」の最低条件ではないか、というのが私の考えでした。
そして、具体的にどういう側面で、「人間になる」、「人間であろう」とするかは異なっていても、ある点において「真摯」にそこを掘り下げているなら、きっと「共感」できるところがあるだろう、と私は思っています。
その「共感」は、何らかの概念的な「共通理解」を予め前提することとは違いますし、事後的に何かの「合意」を取り結ぶこととも違います。
あくまでも、一瞬、「分かった」気がするだけで、異なる存在である以上、すぐに「分からなく」なりますが、おのおのの生活に還ったときに、どこかに「今までとは違う何か」が残っているかもしれないという、その可能性に一抹の期待を賭けるわけです。
因みに、この瞬間は、過去ー現在ー未来という流れの「一瞬」ではなく、その流れを中断するような「瞬間」であるはずです。




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