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社会「教育」の窓

所長の鬼頭です。
音声配信を始めてから、はや2か月くらいになりますでしょうか。
自枠としては、①文学作品の朗読枠、②哲学枠、③(恥ずかしながら、素人の)アカペラ枠、コラボで④雑談枠、⑤相談枠、⑥声劇枠をさせて頂いております。
お蔭様で、過疎枠ながらも、いわゆる常連さんが出来つつあります。
日頃のご厚誼にこの場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

私はオンラインの活動をこれまでも幾つか手掛けて参りましたが、手放しにオンラインが好ましいとは思っていませんし、どちらかと言うと、その弊害の方に目が行く方だと思います。
例えば、配信アプリについても、単なる暇つぶしであるとか、満たされない承認を得るために、依存的に用いること、あるいは本来目を向けるべきことから眼を背けるために、逃避的に用いることには、あまり肯定的ではありませんし、対面する意義を軽んじるつもりもありません(ただし、物理的に顔を合わせているだけの状態を「対面」と呼んでよいかは謎ですが…)。

ただその一方で、既にこれだけ広まってしまっている「オンラインツール」を無視することはできませんし、「オンラインツール」であればこそ可能な事柄があるとも思います。

と同時に、これは私自身の反省でもあるのですが、「配信アプリ」についてのある種の「偏見」が、経験を通じて、ある一面においては相対化されたのも、また事実です。
例えば、ネットの人間関係は「希薄」であるという言説は広く見受けられますし、実際そういう面があるのは確かなのですが、意外と「人間」同士の付き合いが大事にされていると思われる場面に遭遇することがあります。
あるいは、視聴者数やGIFT目当ての配信が多いのも事実ですが、「こういうことを伝えたい」ということではブレない配信にも幾つかお耳にかかりました。
または、「空談」に近い雑談枠は数多あるのが実情ですが、そうした場に一リスナーとして赴く場合においても、ふとした事件というか、出来事において、割と真面目な語りが、ふと顔を出すこともあり、それが聞いていてなかなか面白いことです。

ここで言いたいことは、ネット社会に関する否定的言説というのは、事実の一面を的確に言い当てているのは間違いないのですが、必ずしも現実はそれ以外の側面がない訳でもなく、そこをすっとばした議論は、片手落ちだということです。
ただしと同時にですが、ネット社会に関する否定的言説が奏功している側面は確実に存在しますので、ネット社会が現に善きものであるとまでは言い難いことです。
つまり私の議論は、食わず嫌いで配信アプリを軽蔑する議論という極と、それらにどっぷりと浸かって、それらを擁護する議論とを、共に退けようというものです。
したがって、配信アプリをもし、「有意義」に使おうとするならば(つまり、常にそれである必要もないのですが)、どのような使い方ができるのか、ということが、私の問題関心の1つとしてはあります。
私がネット社会全盛の時代に生まれ落ちている以上、好むと好まざるとに拘わらず、この議論は避けがたいことです。

これは同時に、施設中心・対面中心で構成されてきた「教育学」への、私なりの一種の反抗でもあります。
学校業界でも、社教業界でも構わないのですが、施設に来ない人はどうするのか、いわゆるアウトリーチを行う際に、今までの施設を変えないままで、現状の施設をどう「発信」するかという「広報」の問題に、「アウトリーチ」の問題が小さく切り取られてしまっているような気がするのです。

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