居場所は自分で作るもの。~ファンデッカスの遊び場とはどこか~



ないよ。理想郷なんて、少なくともこの世には。
格差、差別、搾取、対立、その他諸々厄介なしがらみが常に付きまとうから。そもそも世界とやらでさえもそんな風に歪んでいるんだ、人間なんて小さなもの、いとも容易く歪んで汚くなるのは必然だろう。


ピュアリィ超重クシャトリラ、所謂最強環境デッキ、彼らの主戦場は間違いなく「大会」。
ランキングデュエル、CS、店舗非公認、その他色々。

さて一方、彼らと相対した時手も足も出ないこと請け合いの無数の星々、環境外デッキ。彼らの戦場、果たしてどこだ?

フリー対戦?
違います。だって、フリー対戦は本当にフリー。
なんか環境が飛び出すことは多々ある。
先攻が完全制圧敷いてくることなんて、きみが一日にウ○コ出す回数よりよっぽど多い。

さて、右も左も塞がった。果たして弱者に居場所はあるのやら?


【1】ない

居場所?ないよ。そんなもの。
TCGだ。勝つのが目的として作られているし、公式の最初の想定ではデッキとは普通「強いカードを集めて組むもの」だ。

キャラが好き、モンスターが好き、そのような理由で組むのは最初から想定などしていない。思ったよりも増えたもんだからさすがにどうにかしないとってことで最低限は手を差し伸べたものの。

弱者を好んで使うようなプレイヤーなど、最初から存在さえ認められていないのだ。

だから居場所はない。
フリー?交流会?ランキング?場違いとか知るかよ。どこだろうと強いの使えよ、なんで使わないんだ、では使わないお前が異常者だ。そういうものだ、本来は。


というわけで、この記事はどうだったでしょうか?
弱小デッキに居場所はない!皆さんも、キャラデッキは速攻売り飛ばして、とっととピュアリィ握りましょう!ピュッピュッ~!!



 


なんて言われて諦められないのが、我々変態というものだ。

そんな変わり者の中には、時折現れる。
自らが異端者ではなく、むしろ自らこそ王道を歩んでいると勘違いしてしまう者が。

それもそうだ。遊戯王における異端者は、なぜか異端であるにも関わらず一定の数を観測されており、それは本来王道であるはずの競技思考者の数に匹敵する。
声のでかさと数が合わさればこそ、勘違いが起こる。



【2】そして彼らを人はこう呼ぶ

自らを王道であると勘違いした者たちは、次にこう考える。

「王道であるはずの自分たちが日陰を歩き、異端であるはずの奴らが大手を振っているのはおかしい。
奴らを排除せねばならない」

どうしたことか。
異端であるはずのマイナー使いが、あたかも「マイナーの道を進む者こそ正義」というように吹聴し始めたではないか。

こういうやつに限って声がでかいのだから困るが。

自分の愛するマイナーを蹂躙する者、すなわち環境デッキに対し、あまり良い思いをしないのは当然とはいえ、それら、並びにそれらを扱う者を「悪」と断じてしまうことがある。

その瞬間が、マイナーやファンデッキを愛する手段として、他を嫌い貶すことを選んでしまった哀れな存在、「ファンデッカス」である。

例えるのなら、音痴だ。
美しく放っているつもりの自らの歌が、他者にとっては呪いの怨嗟として聞こえていることが分からない。

愛するものを愛するあまり、そうでないものには恨みを放ってしまう。それは愛とは呼べない何かであることを知らないのだ。

本人たちには何も悪気はないのだ。
ただ、愛するものを傷付けるものを許せないだけだ。
ただ、ファンデッカスたちが謗り傷付けた環境テーマもまた誰かの愛するものである、という簡単なことを忘れてしまっているだけで。

それを思い出せるか否かこそが、ファンデッカーへと戻る更生の道を歩み出すか、それとも、ひたすらに呪いを吐き出し、振り撒き続ける怨嗟の泉と成り果てるかの分かれ道である。


【3】大いに笑うがいい、道化はここに一人

発生に至るメカニズム、そしてその思考について、一定の見識と持論があるのは、自らがそうであったからに他ならない。

私の組むデッキはおおよそが弱い。一応ピュアリィやラビュリンスといった強力なパワーを持ったテーマは持っているが進んで使うのは好まない。
ガチ対戦はシンプルに疲れる。体力にも精神力にも自信はそうない。

「そこそこ」のテーマで緩く、勝敗を気にせず戦うのが性に合う、だからこそ出るのはランキングやCSではなく交流会やフリー対戦会だった。

だが、その時の私は知らなかった。
この世に都合のいい理想郷などないのだ。

フリーに行こうと、対戦会に行こうと、現れるものは現れる。環境テーマを手にしたガチ思考者だ。
「ガチ対戦用でお願いします」と言われれば、手札誘発も積まない格安中堅未満では勝てるはずも無い。
蹂躙されるだけの壁になるのは御免だ。仕方なくラビュリンスや芝刈りシャドールを取り出す。確かに拮抗し、面白い勝負にはなる。

だがそうではない、求めていたのはそうではない。

回したいのはそちらではない。


募る不満。溜まる苛立ち。
フリーだ、その上相手こそ本来王道である遊び方だ、文句を言うのは筋が通らない。

それでも私は、溜まった怨嗟の矛先を探した。「愛する中堅」にかこつけて。


ある程度吐き出して、他者の意見もあって、ようやく私は台本の中の大きな読み落としに気付かされた。

私は、一言も言っていないじゃないか。


「私は異端者だ、異端の対戦はできるか」

などと。


これでは演者ではなく、まるで滑稽な道化だ。


【4】切り開くのは自らの手でこそ


「したい」ことができなければ、当然人は不満を抱く。

限りなく挙げられる人の性質の中に、責任を負いたがらないというものがある。
だからこそ「できなかった」のを相手の責任にしようと試みる。

だが現実はどうだ?
自分の「したい」を伝えない、相手の「したい」をただ受け入れる。その選択をしたのも私ではないか?なら責任はどこにある?少なくとも、片方だけではないだろう。

怨嗟を吐き出す前にやるべきは、自らの行いを振り返ることだったのだ。
恥じて、悔いて、改めることだったのだ。

…いいや逆かもしれない。
私の場合、怨嗟を吐き出したからこそ、恥であることを気付かせてくれる者の目に留まるという幸運を得られた。やはり持っている、私は。

私のしなければならないことは、「低パワーのクソデッキをぶつけたいが、あなたにその手持ちがあるだろうか、それともガチ対戦を希望するだろうか」と問うことだったのだ。
聞き手に徹し、自らの意思を封じて頷くだけの行為をコミュニケーションとは呼ばない。それではAIにすら及ばない機械未満のスクラップ、人にすらなれないクズではないか。人は人と関わるからこそ人足り得るのだ。

私はすぐに考えを纏め、そしてここに記している。おかげで忘れずに済みそうだ。「自らの愛が満たされないことは、誰かの愛を否定する理由にはなり得ない」という簡単なことを。「居場所は自分で作るものだ」という当然のことを。

ガチデッキを否定する必要など、どこにもないのだ。
真に否定するべきは、どちらか一方だけを押し付けようとする暴力的な意思だ。
ガチデッカーはフリー対戦が嫌いだ、ファンデッカーはガチデッキが嫌いだ、そんなことはない。私のようにどちらか一方に苦手意識がある者はいても、「嫌い」とまで行くものはそういないだろう。いいや、いても問題はあるまい。お互いの好みに配慮し、譲歩し合うコミュニケーションさえ出来れば良いのだから。

互いに思いやり、互いを考え、たまたま目の前にいるたった一人の言葉に耳を傾ける。こんなに簡単なことを私は失念してしまっていたのだ。


ないよ。理想郷なんて、少なくともこの世には。
格差、差別、搾取、対立、その他諸々厄介なしがらみが常に付きまとうから。そもそも世界とやらでさえもそんな風に歪んでいるんだ、人間なんて小さなもの、いとも容易く歪んで汚くなるのは必然だろう。

けれど、小さな人間だからこそ、その歪みもまた広い目で見ればごく小さい。
世界の歪みが正せずとも、人間同士の歪みくらいなら、お互いに正し合うことはできると思う。

マイナーデッキの、ひいては遊戯王の理想郷もそうだ。
存在しない。少なくとも今、この世には。

だからこそ、これから作るのだ。
互いの否定ではなく、対話によってそれを成す。
互いの望みを否定しない。
互いの考えが理解できずとも、その存在だけは肯定し、侵略しない。
歪みは正せる。軋轢は和らげられる。互いに互いの願いを叶える意思さえあれば。

自分の願いだけでは無い。
「ガチ対戦がしたい」「弱いデッキを使った対戦がしたい」お互いの願いを、お互いに少しずつ叶えていく。
私の場合、自分の願いが無用に肥大化してしまったのだ。だからこそ、それが憎しみに変わる前に自らの願いを伝えていく必要があった。やり方を間違えたのだ。


相互理解、これは簡単なことに聞こえるだろうか?
それとも、未だ人類が完全には為せない夢物語だと思うだろうか。綺麗事だとしても、本当ならそうであってほしいもののはずだ。

ともすれば。
人間同士の関わり合いにおいて、1度原初に立ち返ることになるかもしれない。シンプルなそれこそ理想である。カードゲームから始まって、人そのものの在り方を探ることになろうとは。

ともあれ。
その清濁を両方知る私だからこそ、何か言えることがあるはずだと思う。

いつか、誰も傷付かない究極の理想郷を目にしたい。世界全部、国全部は無理でも、せめてひとつのゲームの中くらいでは、いつか。

過ちを超えてたどり着いた、今の私のひとつの夢だ。

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