水に流れる三枚目の木の葉『皇国史観』

タイトルで逃げないでくださいね、安全ですよ!

青雲之志を胸中に抱く皆様、こんにちは。九天の暗雲が垂れるようであれば、紫電一閃、快刀乱麻、さっと革新の夕嵐に吹いていただきたいものです。冗談です。

何が冗談なのか分からない方のために一応解説を付記しておきます。

元ネタは「昭和維新の歌」です。二・二六事件の映画で耳にしたことがあるという方がおられるかもしれませんね。

閑話休題。本題に入ります。

4月20日に第一刷が発行された『皇国史観』(著:片山杜秀)を紹介いたします。この方の本は懇切丁寧な記述で、勉強に役立つと思いましたのでご参考まで。

元々、新潮選書より上梓された『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(著:片山杜秀)を読み、戦前思想の一端を理解する一助となっていたため、著者の名前が記憶に新しかったのです。偶々、新書を上梓されると知り、購入を即決いたしました。この方の縷述法は読み手に語りかけるよう噛み砕いておられるのでサラッと読めますが、内容は色々な話がギュッと詰まっていて読み応えがあります。

先ず『未完のファシズム』の概略から。

日本の戦争といえば、明治維新以後、日清・日露戦争に始まり終戦に至るというイメージを持たれる方が多いのかもしれません。

ですが、軍事の観点からすると、劇的な変化を迎えたという意味で重要なのは第一次世界大戦だと思います。一言で言いますと、それは総力戦の始まりです。戦場において、瞬間的に莫大な火力が必要となりますし、銃後において、それを支えるだけの産業・経済・流通基盤が確立されていなければなりません。勿論、前線が伸びるわけですから、必要な兵士数も増えます。

とはいえ、日本において、日露戦争の段階で酒税・所得税・消費税のような経済的負担を強いる政策が採用されていましたから、偶々ですが、総力戦への用意が出来ていました。こうした経済状況について、「金持ちに媚を売って、大衆に負担を課している」と言って、大川周明が批判していたりします。

話が逸れました。第一次世界大戦を振り返って見ますと、総力戦という従来とは全く異なる規模での戦争が展開されていたのですから、日本の軍部は勿論総力戦を行えるような戦略を構想する必要がありました。例えば、石原莞爾や永田鉄山の構想が有名ですね。

勿論、総力戦という課題は日本に限った話ではありません。他の諸外国でも悩みのタネでした。例えばイギリスでは1916年に科学技術の動員を目的として科学的及産業的研究部が設置されたり、労働力管理のために1915年に国民登録法が制定されたり、1926年には電力統制のために電力供給法が制定されて電圧が統一されたりしています。1920年代には、アメリカでも産業動員や軍需調達計画が考えられるようになりました。実際に第一次世界大戦を戦った当事国として、こうした計画をなすべきという国民の共通認識があったようです。(著:森靖夫「戦間期アメリカの「国家総動員」準備(1920~1939)」や「日本の国家総動員のモデル」を参考)

ですが、困ったことにどう計算しても日本は総力戦に耐えられません。

橋川文三や戸坂潤も言っていますが、抑々明治維新以後、「国民」は上から家族という構成単位や金銭的負担を押し付けて創造されたものです。民間の協力を得るというのは少し難しいでしょう。

総力戦という喫緊の課題を抱える軍部ですが、第一次世界大戦において政軍関係の中で予算によってしっかりと管理されていましたから、お金もありません。(著:大前信也『陸軍省軍務局と政治 -軍備充実の政策形成過程-』を参考)

お金もない、アメリカのような民間との協力も期待できない、資源もない。ないないづくしです。そうなってくると、精神を強調するくらいしか出来ることがありません。大正期の宇垣軍縮の頃、削減人員に教職免許を取得できる制度を設けたのは、経費削減という表の目的とともに、国民教育という意図が併存していたのかもしれませんね。

軍部からすると、日本が総力戦に耐えられないことは分かっています。ですが、戦えないとは言えないのです。征夷大将軍であった徳川幕府は征夷の能力がないことを露呈した結果、論理的な存在意義を失ったことが想起されますね。こうして、精神を強調するという道に至るのです。

でも不思議です。突然謎の精神論が流布する世の中になるのです。従来の官僚試験では天皇機関説が主流だったのに、筧克彦のような宗教味を帯びた憲法学が主流の世の中になってしまったのです。民衆は違和感を覚えなかったのでしょうか。

完全に私見ですが、殆どの場合、恐らく本当に違和感を覚えなかったんだと思います。今日、人のものを取ることは犯罪です。なぜかと言われても、それが法律だからとしか言えないでしょう。これと同じです。みんな言ってる、法律にそうある、だからそういうものだ。普通に生きていたら見逃す程に日常に浸透していたんだと思います。もし違和感を感じる人がいても、パノプティコンの原理で圧殺されます。他人の視線が気になるから黙ってしまう。そんな日常が数年続けば違和感も希薄になるでしょう。

現状に倦ねずに様々な事を知ろうとする、考える、人と積極的に意見をぶつけあう。
こういった当たり前のことが大切なのかなと、私は勉強していて思います。

紹介している本の内容からかけ離れたことを色々と書いてしまいましたので、本に実際に何が書かれているのか気になった方は是非片山杜秀先生の本を手にとってみてはいかがでしょうか。

また、突然私見を述べましたので暴論だとか馬鹿なやつだと思われるかもしれませんが、まだまだ勉強すべきことのある青二才だと寛大な心で笑っていただければ幸いです。

駄文長文でしたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。



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