水に流れる七枚目の木の葉『社会哲学を学ぶ人のために』

こんにちは。もるです。
近頃、頓に暑さが増してきましたね。
寝汗が辛い一方、洗濯物が乾きやすくなるので嬉しいですね。

さて、今回は世界思想社より上梓されている『社会哲学を学ぶ人のために』(編:加茂直樹)をご紹介します。

執筆者はのべ28名です。社会問題をそれぞれが様々な角度から解釈し、考察を重ねていたので、大変読み応えがありました。
個人的には、琴線に触れるものもあれば、非中心化に徹しすぎてあまり面白いと思えないものもありました。
勿論、どれも示唆に富んでいて面白かったということを口添えしておきます。

社会問題について、哲学は役に立たないのでしょうか。
確かに哲学と言われると、理性やら現象やらイデアやらなにかと現実から乖離したものを取り扱っているように思われるかもしれません。
そして、一度哲学の名著と言われるものを繙いてみると、用語が難しかったり何を言っているのか分からなかったり、現実の問題を取り扱っているように思えなくなります。

ですが、哲学は絵空事を扱う学問ではありません。むしろ、日々の生活に即して身近な事柄について真剣に考察する学問です。そうした意味で、哲学が無価値になることはないでしょう。法学が現在の法体系を、経済学が経済論理を、商学が現代資本主義社会下での売買方法を、それぞれ取り扱っていると考えられます。そして、哲学は、それら諸学問の根本に関わる、人間の有り様を取り扱っているのです。

哲学に回答はありません。自分で死ぬ気になって考えることが重要です。百冊の本を読むのはそれ自体を目的にしてはいけませんね。自分がどのように解釈し、見識を深め、自身の思考を何かしらの形式で以て社会に作用することが大切です。私見ですけれども。

では、本書の紹介に入ります。
共同体の意義、自由や個人主義の台頭、平等、各人が道徳的な不一致を抱えたままで合意に至ることといった風に、社会哲学の基礎が第一章で取り扱われています。それぞれの概念一つとっても、様々な問題が見えるので面白いです。どの概念も今日の社会で起きている諸問題を考える上で避けては通れない概念だと思います。個人的には、特に、共同体の意義が面白かったです。
他者から私達は必ずどこかで何かしらの影響を受けています。人格形成や他者関係を考えてみると、分かりやすいでしょう。私の価値基準や判断基準も同じでしょう。自己決定は今日の個人主義の台頭下で主張されるほど力強いものではないかもしれません。さて、共同体というと、良い面も悪い面もあります。因習と伝統は紙一重ですし、自主的参加と強制的参加もこれまた紙一重です。清濁併せ呑む概念ですね。
以上、しょうもない呟きです。

第二章は社会哲学の現代的論点を取り扱っています。自律、効率と公正、組織と責任、権力と暴力、寛容という論点が並んでおり、個人的には大好物でした。自粛明けには友人と議論をしたいものです。
第三章は家族・性・教育に触れています。第四章は医療・福祉、第五章は科学・技術、第六章は国家・民族・宗教について書かれているので論題は多岐に渡ります。考察を休む暇がありませんでした。

余談ですが、読んでいる最中は色々と思考がめぐる一方、読み終えると何もかもが記憶から飛んだ真っ白なおつむになってしまうのですが、伝わりますでしょうかこの感覚。
読んだ!色々考えた!さて、何を考えたっけ…?ふむ…?記憶にない…。
こんな感じです。
私が鶏頭だということなのでしょう。くすん。記憶力ほしいです。
閑話休題。

さて、全てを取り上げるのは難しいので、二つ取り上げます。

まずは自律から。
自律は自己決定くらいの意味で使われる言葉ですね。
そして、自律には三つの側面があります。何をするのも自由という意味で「行為の自由」、自分で考えたことを選択するという意味で「選択の自由」、最後に意思決定の能力があるという意味で「合理的意思決定能力」です。
カントにおいて、自律はそれ自体に道徳的価値が存在する故に尊敬されねばなりません。
J.S.ミルにおいて、自律は人間の幸福を構成するもの故に尊重されます。
最後に、こうした考え方があることを私は知りませんでしたが、現代において、自律は平和な社会のための手続き的な制約故に暫定的に尊重されるそうです。
他者に危害を加えなければよいという考え方ですと、これが本人のためになるからという理由では自律に介入出来ません。あくまでも他者様に深甚な迷惑をかけるという理由でのみ、自律は制限されるのです。
間違っていると自分が思っていることを他人がしたならば否定しなければいけませんが、正しいと自分が思っている思っていることを他人に強制していいというわけではないのです。
勿論、自律ばかりを強調すると、自律以外に気を配る必要性が薄れるて配慮が足りなくなりますから、自律一辺倒ではいけません。
共に生きる他者を思いやって、思いやることをも自律の内に含める必要があるでしょう。
他にも、意思決定の能力の基準がなにかという問題であったり、選択肢が抑々少ない中での自律が「~したい」ではなく「~以外の手がない」になりかねないという問題であったり、私達は抑々人に流されて生きてはいけないのかという問題であったり、といったことが自律を巡って考えられます。

次に、寛容について。
寛容はとても大切です。これは間違い有りません。とはいえ、何でも寛容的になればよいかといえば少し疑問ですね。
一見どれだけカルト的で私にとって受け入れられない宗教であっても、熱心に信仰している以上、口出し出来るものではありません。
子供が純粋な悪意で他人の家の物を盗んできたことについて、自主性を褒める親は極めてまれでしょう。
勿論、ここまで分かりやすい例であれば、無制限の寛容を肯定する人は少ないでしょう。
しかし、現実の問題がそう簡単に割り切れないのは、皆様思い当たるフシがあるでしょう。
真理が確実だと思える科学領域において、寛容は意味をなしません。
同じ規則に従っている以上、1+1=2は誰が計算しても同じです。
1+1=3と主張するのは個性でもなんでもありません。このルールにおいては、間違いです。
個性を出すとすれば、進数を変えたり、ルール自体を別個に設けることです。
ルールそのものにおいては寛容ですが、ルールの運用に際して寛容ということがありません。
それが科学領域でしょう。
何かに耐えるほうが得な場合の寛容も、一見寛容だと思えますが、ただの損得勘定の結果に過ぎません。
取引の相手方は気に入らないが、飲み会で親睦を深めることによって、より多くの取引が見込めるとしましょう。
その時、恐らく売上成績の向上を目指して、私は飲み会に耐えます。
ですが、この時の私は別に寛容だと言えないでしょう。
勿論、その問題について抑々興味がない時、私の態度が寛容だとは言えません。
無関心であること≠寛容であること、これはご理解いただけると思います。

寛容について私が思ったのは、寛容は消極的な共同体主義において見出しうるということです。
寛容において重要なのは、「この人も私とともに生きる存在なのだから、たとえどれだけ同意しかねることをこの人が考えて発言するとしても、私はそれを否定しない」ということです。
そうした意味で、実は共に生きる存在であることを前提とする必要があります。
次に、消極的な共同体主義について説明します。
勿論、積極的な共同体主義が考えられますが、この時、私は、共同体の他の成員に対して、要請する立場にあります。
道徳を守れとか伝統を守れとか、こうしたことを強制しようとする考え方を念頭に置いています。
いうなれば、こちらは構成です。何を守るべきかという判断基準にまで干渉しようとします。
一つ、理想論じみてしまいますが、個人がこのように思うことによって、寛容への道が開けるのではないでしょうか。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

最近思うのですが、ブログと言うにはあまりに分量も情報量も有り、そのくせとっちらかっている気がします。自覚はあります。

完全に私のメモ帳ですね、すみません。

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