誹謗中傷について

こんにちは。もるです。

誹謗中傷について思う所があったので、頭の整理がてら文章に起こしてみようと思います。

結論から言いますと、誹謗中傷を社会が制限するということに私は反対です。その論理は順を追って説明します。

一つ目の理由から触れていきます。誹謗中傷が善か悪かという価値判断は差し置くとして、誹謗中傷は心地よいものではありません。いかなる理由があるにせよ、誰かが誰かを罵倒したり冷嘲したり侮蔑している姿は見ていて気持ちの良いものではありませんからね。このことについては、誰でも賛同できると思います。見ず知らずの第三者に罵倒されたいと思う人は先ず居ないでしょうから。

とはいえ、自分に関係のない人の行為について、私達は好ましく思ったり、疎ましく思ったりすることも否定できません。

このことについて、私見ですが、誰かを好き・嫌いになる選択肢は必ず保証されねばなりません。誰かを嫌いになることが出来ない世の中なんて、ディストピアも甚だしいです。例として私の嫌いな事柄を挙げてみます。ご飯を食べるときに喋り続ける人を私は嫌いますし、公共交通機関の中で声量を意識することなく喋る人も嫌いです。なんなら、会っている最中に目の前で携帯ゲームをし始める人なんて大嫌いもいいところです。自転車のベルで通行人をどかせようとするおばはんへの苛立ちには甚だしいものがあります。

とはいえ、ご飯を食べるときにおとなしく食べるということと喋って食べるということは選択肢として侵害されてはいけないように思います。公共交通機関の中で、周囲を意識せずに喋ることと控えめに喋ることと全く喋らないように気をつけることはどれも選択肢として用意されていなければなりません。人とあっているときに、ゲームをすることと本を読むことと喋ることはどれも選択肢として常に侵害されてはいけないでしょう。

要するに、選択肢は保証されるべきだと私は思うのです。

それゆえに、誹謗中傷という選択肢もまた保証されるべきなのです。批判と誹謗中傷は違うといいますが、言う側と受け取る側の在り方次第でこの二つの境界は曖昧になりますから、一々区別するよりもその両方を選択肢として保証しておこうということです。

ですが、選択には当然責任が伴います。心のなかで思うだけならまだよいでしょうが、それを実行するのは、必ず自分以外の誰かとの関係の中です。罵詈雑言という選択肢は保証されていますが、それには必ず相手がいます。
その他者との関係を吟味した上で、選択肢を実行するかどうかを判断するのです。
選択肢を保証している以上、思考・行為を選択する権利は一人ひとりにあります。そこで、その行為に責任を持てると思えるのであれば、実行を選択すればよいのです。

少なくとも「自分が間違えているかもしれない」という予防線を貼っておけば、行為を実行するかどうかについて逡巡すると思いますし。

以上をまとめると、好悪という感情がある以上、誹謗中傷という選択肢それ自体は保証されて良いが、実行する際は何らかの相手との関係の中で実行されるということを忘れてはいけない、ということになります。

次に、二つ目の理由についてです。私は個人主義に対してかなり否定的な見解を持っているのですが、国家による法的制限や社会による暗黙の制限が良いとは全く思っていません。人間が数多の他者との関係の中で生きていることは事実としても、各個人の選択肢を制限するものはあくまでの個人の選択でなければならないとも考えています。そこで、少なくとも罰則や侮蔑といった国家や社会が個人の選択肢を狭めてはならない、と思うのです。とはいえ、実際問題、他者の目という暗黙の制限はどうしようもないでしょう。これに関しては目を瞑るつもりです。ですが、国家が暴力装置を以て個人の選択肢を制限するということには全くもって反対です。個人に対して誘導したり選択肢を提示することはあっても、命令すべきではないでしょう。

要するに、個人にどこかでなんらかの選択肢を残すか、個人に選択肢が残されていると思えるように誘導する必要があり、国家は個人の選択肢を命令すべきではないと私は思うのです。

いくら問題だからといえども、早急な改革ほど拙速に終わるものはないでしょう。

ここまで、浅学非才な大学生の一意見でございました。
読んでいただいた方には感謝してもしきれません。ありがとうございました。

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