水に流れる一枚目の木の葉『経済学・哲学草稿』

おはようございます。こんにちは。こんばんは。もるです。

一番最初ですから、思い入れのある本について書いても良かったのですが、とりあえず直近で読んだ本を一冊ご紹介いたします。

文章に起こす最中、自身の薄学を思い知って身悶えしておりますがこれも一興。

今回の書物は、光文社古典新訳文庫より上梓されている『経済学・哲学草稿』(著:Karl Marx、訳:長谷川宏)です。

待って下さい、逃げないで下さい。想像されている程、怪しくも危なくもないです、きっと。

予め断っておきますけれども、私は殆どマルクスの著作に触れたことがありませんので、「君の言っていることは違う!」という点があると思います。海より深い寛大な精神を以て、どうか糾弾しないであげて下さい。もるが怖がってしまいます。

まず、この本を読む契機となったことからお話したいと思います。

今日では往々にして、マルクス主義やマルクスの著作というと時代錯誤や過激思想だと思われがちです。私もそうでした。一冊もマルクスを読まないままに、「マルクスかあ、興味関心と違う気がするし読まなくていいか」と思っていました。

さて、書店で読みやすそうな本を物色していたある時、角川ソフィア文庫より上梓されている『マルクスを再読する 主要著作の現代的意義』(著:的場昭弘)に目が止まりました。マルクスを読んだことのない人間が「再読」とはこれいかに。とはいえ、一読してグローバリゼーションについて触れていた点を面白そうだと感じ、早速購入しました。

読み終わったとき、マルクスを毛嫌いせずに読んでおけばよかったと思いました。それほどに興味深い話だったのです。幸いなことに著者がマルクス入門への手引を示していたので、誘導のままに手を出したのが『経済学・哲学草稿』でした。

他に、岩波文庫より上梓されている『賃労働と資本』(著:Karl Marx、訳:長谷部文雄)を一読しています。こちらはブルジョアとプロレタリアートが資本主義社会で宥和できるという国民経済学の主張に対する反論でした。読みやすい部類だと思いますので、機会があれば是非。

前置きが長くなりました。早速、本の紹介に入りたいと思います。

章立ては以下です。                         第一草稿:賃金、資本の利潤、地代、疎外された労働。         第二草稿:私有財産の支配力。
第三草稿:私有財産と労働、社会的存在としての人間、ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判、欲求と窮乏、分業、お金。
付録:『精神現象学』の最終章「絶対知」からの抜き書き。

その中から、面白いと思った点を特に取り上げてみます。この話は、アダム・スミス以下の国民経済学への反論という文脈です。

さて、賃金は資本家と労働者の関係において発生します。人間の力と時間を雇用主に売り渡すということです。その時、労働者が家族を扶養できる最低限度額を基準にして、資本家は賃金を払うでしょう。

一方、資本家からすると、同じ利潤率を保つのであれば、投資する額は大きいほうが良いでしょう。そのほうが儲かります。例えば、売上の1割を自分の懐に入れると考えて見て下さい。売上が100万円であれば10万円が、100億円であれば一億円が資本家の懐を潤します。

とはいえ、ただ規模を大きくするだけでは儲かりませんから、資本家はより少人数でより大量の製品を製造出来るように最新鋭の機械を導入するでしょう。すると、これまでほどの人手を必要としなくなります。このとき、そこで働く人の数が過剰になりますから、余剰人員が発生します。社会の経済が好調であれば、彼らは新規工場に送り込まれるでしょう。しかし、社会の経済が不調であれば、労働者間での就労ポストの争いは激しくなるでしょう。もしかしたら、労働者を解雇する資本家が現れるかもしれません。

ですが、今回取り上げる問題点は少し違います。
資本家が機械を導入して大規模な製造ラインを確保することに問題点があるとマルクスは言うのです。

一般に、労働者が沢山集まれば色々な事が出来ます。例えば机を作るとしましょう。君は机の足を、私は机の板を、貴方は梱包を…というように、人手が沢山あれば分業が可能になります。労働者はそれぞれ自分の仕事だけできれば問題ありません。

しかも、作業が細分化されきっていますから、新人に仕事を覚えさせるのは簡単です。管理者は新人に対して「材木をこの形に切れ!以上!」といえば多分大丈夫です。翌日から新人は一人前の作業員として立派に材木を切り揃えるでしょう。
この時、働く新人は自分が何を作っているかなんて気にも止めないでしょう。とりあえず木材を切れば、とりあえず褒められて、とりあえず賃金を貰えて、食にありつくことが出来ます。
マルクスの言う「物の疎外」はこうしたものでしょうか。

この時、一つ一つの仕事に丹精を込めて細密な労働をして一つの机を作る職人の労働と一つの歯車として流れ作業の意味も知らずにこなしていく労働者の労働は何が違うのでしょう。

それはおそらくやり甲斐です。

同じ木材があるとしても、自らこねくり回して一つの机を拵えるのと、初めから決められた形に従って机を作るのと、労働のあり方が異なっています。
こちらが、マルクスの言う「自己疎外」だと思います。
こうして労働は「疎外」されます。つまり、自分にとってよそよそしいものに感じられるということです。

幼い頃にスライムを自作したときの喜びはとても大きいものでした。一方で、100円ショップでスライムを買ってもそこまで喜びませんし、愛着も湧きません。

では「疎外」を免れるにはどうしたら良いのでしょうか。
おそらく、「労働」のあり方を変えねばならないのです。
例えば最終的な目的だけを労働者に伝えて、全て一任してしまうのです。誠実な労働者であれば、そして誠実であろうと労働者が思えるだけの生活を資本家が保証していれば、机の用途や机を使う人の特徴に合わせて世界に二つとない机を作り出すかもしれません。
「材料を与えるから、形は思うがままにしなさい」
こういった姿勢でしょうか。

…すみません、話が長くなってきたかもしれません。
「労働」のあり方について、一つだけ示唆的なことが書けましたので、最低限のキリがついたかと思います。

本当はヘーゲル批判をする若きマルクスにも触れたかったのですが、読み手の方が疲労困憊となるでしょうから、一度筆を置きたいと思います。

「疎外」の話を過激に解釈すると、「労働者は資本家に搾取されている!けしからん!」という口上へ至る、昔懐かしの学生運動的マルクス像を読み取ることも可能です。しかし、おそらくそうではないのです。
資本家もまたより大きな資本家と争い続けているのですから、そう簡単に善悪論として結論づける訳にはいかなさそうです。

ここまで読んでいただき、大変嬉しうございます。本当に、ありがとうございました。
まだまだ何かと未熟な赤子ですが、どうか温かい目で見守ってやって下さい。

近頃、頓に暖かくなってきましたね。私は早くも衣替えを行いました。
周辺のベランダから布団を叩く音が聞こえてきます。
そんな日常にどことなく風情と愛着を感じながら、この辺りで失礼いたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?