水に流れる六枚目の木の葉『永遠平和のために』第二章第一確定条項

こんにちは。もるです。

今日は母の日ですね。感謝を述べるのは随分とむず痒いので、父の日しかり、私としては苦手なイベントです。とはいえ、気持ちを言葉にすることはとても大切ですから、疎かにしてよいとも思いませんけれども。

さて、今回取り扱うのは、前々回に引き続いて『永遠平和のために』です。前回は本論全体をサラッと読んだだけだたのですが、今回はその中から一つの点について詳しく取り扱いたいと思います。

本心としては、発表の担当箇所が該当条項だったので、ブログのネタにもなって一石二鳥、くらいの気持ちです。今回は発表原稿の草稿をほぼそのまま転記しているので、読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。

早速、本題に入ります。第二章冒頭部分より。

「平和状態は、創設されなければならない」
自然状態なるものを考えた時、人間が牧歌的で穏やかな状態だとカントは考えていない。むしろ、闘争状態だと言っている。とはいえ、カントがここで言う自然状態は、本当に危害を加えられる訳ではないが、隣人がいかなる法則で行動しているのかが不明なために、安心もできない状態を指していると考える。

「私が貴方に敵対しない」≠「貴方が私に敵対しない」という状態=自然状態

→当方が「敵対しない」という選択をしても、相手側にはまだ「敵対しない」か「敵対するか」という選択肢が残されている。

 「私が貴方に敵対しない」=「貴方が私に敵対しない」という状態=市民的・法的状態

→この状態において、お互いの本心の有り様は問題でない。敵対する動機があっても、実行した際の法的・社会的制裁を恐れるために、私(貴方)が実行していないだけかもしれない。

 とはいえ、この状態はカントの言う自然状態を脱却し得る有力な選択肢である。さて、実現困難なもう一つの選択肢は、抑々貴方と関わらないことである。こちらは、無人島生活を始めれば達成できるであろう。

 また、市民的・法的状態は、その法律に同意して従っている集団の規模を見ることで、分類可能である。即ち、国民法(国内)・国際法(国外)・世界市民法(世界)である。なにがしかの法的体制の下で他の法的体制に対して不安を感じれば、戦争状態に至るであろう。そうならないこと、つまり、隣人あるいは隣国ひいては他国に対して不安を感じない状態を実現すること、このことが第二章の確定条項を定めるカントの意図である。

※カントが動機を大切にすることを踏まえると、「私が貴方に敵対しない」=「貴方が私に敵対しない」状態かつその動機が打算に基づかない状態が「目的の国」成立の一因だと推測することも出来そうである。前置き以上。

第一確定条項
「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」
 「国家」「市民」「共和的」いずれも定義困難な概念なので、一つずつ取り上げて考えるのも面白いであろう。

※「国家」を考える。いきなり難問である。国民(被統治者・時間的統治対象)・主権(統治権)・領土(空間的統治対象)を集約したものが国家であろう。国家の統治方法は経済的でもあり法的でもあり暴力的でもある。

※「市民」を考える。謎である。国家の領土の中にいるからといって市民だとは言えないし、国家の外にあるからといって市民でないとも言えない。肝心なのは、その人本人の心持ちである。国家の歴史に理解を示し共有すれば「国民」かもしれないし、自分以外の何がしかの集団に対して自ら義務感や責任感を覚えれば「市民」であるかもしれない。国家に対する思い入れはさておき、共に社会を生きる他者に対する社会的責任を進んで背負うという人がいれば恐らく文句なしで市民だと言えよう。市民には社会的責任を自覚するだけの教養が必要になるし、社会的責任を果たすための能力もまた必要とされる。

「共和的」の意味
この意味について、幸いにもカントが定義を示している。
・社会の成員が人間として自由であること
・すべての成員が唯一で共同の立法に臣民として従属すること
・すべての成員が国民として平等であること
以上の三原理を満たした体制が「共和的」だと言う。

 さて、「自由」や「平等」はどういう意味であろうか。カントはこのように言う。「私の外的(法的)自由は、むしろ次のように説明されるべきであろう。すなわちそれは、私が同意することができた外的法則のみにしたがい、それ以外の外的法則にはしたがわない、という権能である。同じように、国家における外的(法的)平等は、ひとはそれによって相互に同じ仕方で束縛される事ができる法に、自分も同時にしたがわなければ、だれであれ他人をそうした法の下に法的に束縛することはできない、といった国民相互の関係である。」
→外的自由…個人の選択の自由、外的平等…諸個人の外的自由を維持するために、相互の制限への同意
「これらの権利は人間に生得的で、人間性に必然的に属し、他に譲渡出来ないのであるが、これらの権利の妥当性は、人間がいっそう高次の存在者(このような存在者が考えられる場合は)に対してすら法的な関係にあるという原理によって、確証され、高められる。それは人間が、これと同一の諸原則によって、自分が超感性的な世界の市民でもある、と考えるからである。」
国民法でも国際法でも十分ではなく、世界市民法が必要とされる所以である。だとすると、法律と道徳の一致度合いが、国民法から国際法を経て世界市民法へ至るに連れて高まっていくのではないか。

 参考1:神において義務の概念が消滅するゆえに、自由の原理と異なり、神に対して平等の原理を適用できない。
 参考2:功績が地位に先立つことで平等なので、地位が功績に先立つ限りで世襲貴族という命令者は、普遍的な民族意志の根源的な契約の下で同意されえない。

「共和的」であることが永遠平和にとって不可欠なのか
 理念として、戦争実行を決定する場合、共和的体制では全国民の同意を必要としている。当然、各個人は自分自身の利益や損害を考慮するので、戦争実行によって苦難や災厄や戦費捻出の労力を自ら背負うことが想像される以上、戦争実行に積極的ではなくなる。
 他方、最終的な意志決定権を一人あるいは少数が握っていて、其の者たちが意志決定権を持たない人々を充分に顧慮しないのであれば、つまり体制が共和的体制ではない場合、戦争実行に伴う諸々の艱難を自分自身の痛みだとは考えにくくなるであろう。

 共和的体制と民衆的体制との区別
その時の基準は、最高の国家権力の所持者と最高の国家権力を用いる統治方法である。
 最高の国家権力の所持者について、支配権を持つものが一人か少数か全員か。また、最高の国家権力を用いた統治方法について、統治権の行使と立法権を分離するか一致させるかという点で、共和的か専制的か。以上を見る必要がある。
「民衆制と呼ばれる形態は、必然的に専制であるが、それは民衆性が設定する執行権の下では、全員がひとりの人間を無視して、また場合によっては其の人間に反してまで(つまりその人間が賛同していないのに)決議できる、したがって実は全員ではない全員が決議できるからである。」
また、代表制でなければ奇形だという。というのも、いずれの体制においても、最高権力の所有者が自身の判断基準のみで意思決定を行う場合、立法権と統治権が一致している。他の人格の入る余地がないのである。代表制は意思決定者に他の人格を入れる制度だと言える。そうした意味で、民衆制が代表制でない理由は、全員が全員に対して命令者になろうとするからである。
最高の国家権力の所有者について代表制が採用されていない場合、つまり共和的統治方法が採用されていない場合、意思決定者が一人であろうが少数であろうが大衆であろうが、どうしようもない。特に、代表制のない大衆制の場合、暴力革命以外の道が残されていない。この中でも、専制であればまだ耐える事ができる。
※参考:専制、寡頭制、衆愚政

 最高の国家権力の所有者が少なくなればなるだけ、自身の重責を自覚できる者であれば、謙虚になる。国家体制がどのように築かれているかというよりも国家を運営運用する者の為人次第で永遠平和への道が拓けるかもしれないし、閉ざされるかもしれない。十全な国家体制を構築できれば永遠平和が可能になる、ということではない。

 要点としては、各国家が世界市民的であることを自覚する市民による共和制に至ることが永遠平和への道として説かれている点だと思います。

 世界市民法のあたり、『道徳形而上学原論』を思い返しながら読んでいました。カントの著作のうち、他に私が読んだものがそれだけというだけなのですけれども。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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