『モテキ』を読んで

こんにちは。もるです。

表題の通り、漫画『モテキ』を読みました。昔から気になっていたのです。

率直な感想です。「概念ブレイカー」と思いました。大変面白かったです。四年前からおすすめしてくれた友人に感謝です。ちなみに、友人は夏樹が好きだと言っていました。私は土井が好きでした。

以下、恋愛経験希薄(ゼロと言わないのは矜持心)な大学生の戯言です。

抑々、恋愛のあり方とはなんでしょう。

今日の青少年に向けて開かれているメディアによって、恋愛観の祖型が形成されているように思います。今日往々にして主張されるゾーニングは以後の世代にとっての選択肢を狭めているともいえましょう。この祖型は、恋愛経験(異性・同性を含む)が希薄な者であればあるほど力強く形成されます。実際の相手が居ないから理想像ばかりが膨らむ、ということです。

では、今日の祖型が何かといいますと、一人が一人を大切に思うという意味の純愛で、恋愛に奥手で、健気で…このような恋愛観だといえば伝わるでしょうか。ようするに、ここで祖型になっているのは、男女関係ではなく、理想的な純愛像です。この祖型が私達に提示するのは「~でなければいけない」という命令です。

一例をあげると、「恋人には理想の恋人として対峙しなければならない」という心情です。相手がどうあるかは関係ありません。問題になるのは、ただ恋人関係という契約に基づいて、それぞれがあるべき姿を掲げて、その理想像に向かって行動します。

『モテキ』の主人公は、ある意味祖型に振り回されているのかもしれません。相手からのアプローチがなければ、自分はだめだと内向化します。相手に別の異性の影が見えても、自分はダメだと卑屈になります。相手が今どのようにあるのかということはあまり関係ないのです。

「美人だから」という理由で、土井自身について藤本は踏み込みませんでした。

「迷惑をかけるから」という理由で、土井との関係を藤本は諦めようとしました。

その根幹にあるのは、恋愛は純愛であるべきだという主人公の恋愛観の祖型でしょう。勿論間違ってはいないのですが、理想像を現実に押し込めてしまうという面もあります。

とはいえ、それは土井にとっても同じことです。藤本はメンタルが弱い。藤本は受け身。会えないことで土井の頭の中での藤本像が膨れ上がっていきます。

そこで最後のフジロックの場面です。藤本は土井から別れ話をきりだされた後です。

お互いに脳内で相手の像を思い描いていたとしても、その像が実際の姿と違うということは、実際に会えば直ぐにわかります。

土井が笑い、藤本が涙を浮かべたのも、ひと目で祖型に基づいて出来上がった相手の像が実際の姿と違う事が分かったからなのでしょう
土井からすれば、これまで受け身だと思っていた藤本がここまで来たという事実だけで充分なのです。土井はそれが嬉しくてしょうがないのでしょう。
他方、藤本からすれば、好きだと思っていた人が自分を見て嬉しそうに笑ってくれたという事実だけで充分なのです。

「~関係だから」「自分は~だから」「相手は~だから」という姿勢ではなく、「私は相手に対してどうしたいのか」という姿勢が重要だというのが、最後の場面から私が読み取ったことです。

月並ですね、はい。すみません。

ここまで、恋愛をほとんどしたことのない一大学生の戯言でした。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。



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