水に流れる四枚目の木の葉『永遠平和のために』第一章・第二章

こんにちは。もるです。

先日、外出自粛期間が延長されましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
元々インドア向きな人間だと自認していたのですが、そろそろ友人と外食したり、教授の方とお話したいと思うようになりました。
自分は完全な引きこもりではないというちょっとした発見がありました。

さて今回は、岩波文庫より上梓される『永遠平和のために』(著:カント、訳:宇都宮芳明)についてです。
ゼミの発表教材に指定されて読み返したので、オマケでこちらにも書いてみます。

大学に入学したてで右も左も分からない頃、哲学といえばカントだと思った私は三批判に挑戦しました。
結果、全く読めずに尽く撃退された覚えがあります。
そんな中、平易なものでよいから読んでみたいと思って居た時に出会ったのが『永遠平和のために』です。

普通に読むだけでもかなり示唆的で、色々と考えることが出来て楽しいです。
勿論、カントの自律や理性について理解が充分にあればより面白く細かく読むことが出来ると思います。
今の私にその力はありませんでした。乞うご期待。


そんなことはどうでもいいので、本題に入ります。
相変わらずの無学者ですので、その点はお許しを。

まずは、構成から。

第一章 国家間の永遠平和のための予備条項を含む。
第一条項 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
第二条項 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。
第三条項 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。
第四条項 国家の対外紛争にかんしては、いかなる国際も発行されてはならない。
第五条項 いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
第六条項 いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。

第二章 国家間の永遠平和のための確定条項を含む。
第一確定条項 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。
第二確定条項 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
第三確定条項 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

これに加えて、補説が二つと付録が二つです。

ひとつずつ見ていきます。まずは第一章から。

「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。」
第一章の第一条項はシンプルです。平和の対義語は戦争ではありません。戦争状態は勿論、停戦状態もまた平和な状態でないということです。
当然だと思われるかもしれませんが、重要です。
例えば、甲国は人口・経済力・資源全ての面で乙国を上回っているとしましょう。そして、甲国と乙国が戦争状態だとします。
軍事力において甲国が優勢だとしても、乙国と戦うための損害が戦後に得られる利益よりも大きいと判断されれば、二国間の和平交渉が進むかもしれません。
いいかえると、戦争を継続するよりも一度停戦するほうが現在二国間に発生している力関係を維持できると双方が判断すれば停戦に至るでしょう。
この辺りは、岩波文庫より上梓される『戦争論』(著:クラウゼヴィッツ、訳:篠田英雄)や『国際政治 権力と平和(上)(中)(下)』(著:モーゲンソー、監訳:原彬久)を読んでみると良いでしょう。
この時、二国が和平に合意した理由は、平和を愛するからでも戦争を忌避するからでも相手に同情したからでもありません。
究極的にはそれが自分の利益になると判断したからです。
自律を説き、動機の順序を口うるさく主張するカントらしいなと思うのは私だけでしょうか。

「独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得できるということがあってはならない。」
第一章の第二条項はどうでしょう。
カントにおいて大切なことの内の二つをあげてみます。
一つ目は、自分で決定することです。意思決定の際、「法律にあるから、道徳的にそうだから」という理由だと他律です。徹底的に自分で考え、自分で決定し、その責任を背負う者でなければなりません。
二つ目は、尊厳と物件の二分法です。人格を交換可能な物件としてではなく、交換不可能な尊厳としても(この「も」という一文字がとても大切です)取り扱うべきだという考え方です。
余談ですが、カントは売春を否定します。かけがえのない身体を交換可能なものとすることが許せないのです。
そういった意味で、カントにおいて、こうした理想的な人間のあり方がそのまま理想的な国家のあり方にまで敷衍されているのではないでしょうか。
それが如実に現れているのが第一章の第二条項だと思います。

「常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。」
次です、第一章の第三条項に入ります。
カントが主張しているのは、漸次的な常備軍の廃止です。第一章の第一条項を思い返してみると分かりやすいでしょう。
理論上、軍事力は攻撃と防御の意味合いを持っていますから、国家規模で軍事力が整備されている状態というのもまた一つの停戦状態だといえるでしょう。
ちなみに、「理論上」と付け加えたのは、各国の国防方針とその運用に合わせて整備される輜重のあり方次第で、軍事力に攻撃力と防御力の二面性を見るのが難しくなるからです。
また、常備軍の廃止を主張するカントですが、国民が自発的に組織を形成して防備の訓練を行うことには肯定的です。
上から形成される「国民」よりは下から形成する「国民」像をカントが描いているのかもしれません。

「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国際も発行されてはならない。」
第一章の第四条項について、私としては微妙なので割愛します。
経済に長けた方が読めば何かしら思う所があるのかもしれません。

「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。」
第一章の第五条約を見てみましょう。
独立した一つの国家は他の国家と全く対等であるとします。口出しすることはできるでしょうが、強制することは出来ません。最終的な決定権を持っているのは当国だからです。
一人の人間が他の人間に対して暴力を用いて意思を強要することは、自律ではなく他律ですから、だめです。
これと全く同じで、一つの国家が他の国家に対して軍事力を用いて意思を共用することは許されないのです。
とはいえ、内乱状態にある国に対して他国が体制に干渉することをカントは否定しないのですけれども。


「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。」
これで最後です。第一章の第六条項です。
たとえ戦争中であっても相手の国に対して何らかの尊敬なり信頼なりが残されているでしょう。それ故に、停戦状態が成立するのです。
尊敬も信頼もなくなっていれば、感情に全てを委ねた殲滅戦にならざるを得ませんね。
戦うとしてもお互いに最低限の道徳的なルールを守らなければ、停戦すらままなりません。
ここから少し私見です。総力戦の概念が発達すると、大多数を動員する必要性が発生します。それぞれが好き勝手てんでばらばらなことをされては総力を尽くせないですからね。
この時、大多数を駆り立てるために何が必要でしょうか。その一つは、メディアを通して感情を盛り上げることです。
冗長に理由を書き並べていちいち説明するより、簡潔に勇ましい文言を反復して共通認識を形成することがが重要になると思います。
他にも色々な理由が考えられると思いますが、割愛します。
一応一つだけ付け加えます。
信頼は無形です。「相手を信頼する」と言うのは簡単ですが、実行するのは誠に困難です。
日常生活で誰しも思い当たる経験があるのではないでしょうか。
まして、人の集団である国同士が信頼関係を維持することの困難さは言うまでもないでしょう。


第一章は以上です。中々な分量だと思いますが、お付き合いいただけるようでしたら幸福の極みです。

では第二章に入りましょう。

まずは人間がどういう存在かということから始まります。
自律を口酸っぱく説くカントですから、人間は勿論自律出来る理性的存在だと前提されると思われるかもしれませんが、そうではないのです。
「根本悪」という概念で説明されますが、人間には「悪への性癖」と呼ばれるものがあるといいます。
平たく言いますと、行為に至るまでの動機を改めるということです。
例が悪いかもしれませんが、具体例を考えてみます。
人を助ける時、その結果得られる利益を見越して人助けをしてみます。
あるいは、近くで倒れた人を見捨ててどこかへ行くのは外聞が悪いという理由で人助けをします。
この動機を以て行動を決定する状態は改められねばならない、カントはそう言うのです。
ということで、自然状態が闘争状態であるから平和状態は創設されねばならないとカントは考えます。

では冒頭部についてはこの程度にしておいて、各条項を見ていきましょう。

「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。」
第二章の第一確定条項です。
ここでの「共和的」という言葉の意味は、社会の各成員が人間として自由であること、全ての成員が唯一で共同の立法に臣民として従属すること、全ての成員が国民として平等であること
を意味します。
訳の関係ですが、臣民という言葉が出てくると封建的に感じられる方がおられるかもしれませんね。
さて、「自由」という言葉には勿論含意があります。
よほどのことがない限り、他人に危害を加えなければ何をしてもよい、自由であるという考え方があります。
しかし、カントの「自由」はそういうものではないのです。
どういうことかというと、自律を重視するカントを思い返していただければ分かりやすいと思います。
つまり、存在する法に従うかどうかを自分で決定するという意味での「自由」です。
カントにとっての「自由」の方が通常の「自由」よりも主体性を感じますね。

さて、この「共和的」な体制が永遠平和という目的に適するとカントは言いますが、どういうことでしょうか。
それは自律的な国民が意思決定を行うということから、戦争の開始が意味するのは、戦争の苦難を国民自身が引き受けねばならないからです。
莫大な諸経費や諸労力を消費してまで自ら戦争という賭け事を行うというのは考えにくいのです。
ですから、「共和的」体制にとって、意思決定者もまた国家の成員ですから、意思決定者は戦争に対して慎重にならざるを得ないのです。
逆に「共和的」でない体制にとって、意思決定者が国家の成員でなくて国家の所有者ですから、我が身を削るという発想がありません。
それゆえに、意思決定者は戦争に対して慎重になる理由がありません。

とはいえ、共和的体制とその堕落した体制である民衆的体制は酷似していますね。
何が違うのでしょうか。
一つ目の違いは最高の国家権力を所有する人が誰かという点です。
すなわち、専制か寡頭制か民衆制かという違いです。
王様一人の意のままに国家が動くか、貴族なり各集団の長なりごく一部の意見をすりあわせて国家が動くのか、民衆全体で意見を議論しあって国家が動くのか。
少し無理がありますけれども、大凡このような違いだと理解すれば大丈夫です。
二つ目の違いは最高の国家権力がどのように行使されるかという点です。
つまり、立法権と行政権が一致しているのか、それとも分離しているのかということです。
この二つが、共和制において分離する一方、専制において一致します。
法律を決める人と法律を実施する人が異なる共和制よりも、意のままに王様の決めた法律が効力を持つの専制の方が、私的で恣意的な意思の要素を色濃く残していると言えるでしょう。

ではいよいよ本題で、共和制と民衆制の違いについて触れます。
民衆制において、一見全員の意見が最高の意思決定に集約されているように見えますが、その実そうではないのです。
むしろ、全員が一人の成員を無視したり意思に反しても、最高の意思が決定される状況こそ民衆制なのです。
すると、共和制が大変実現困難なものに思えてきます。理想は美しいが、手の届かないもののようです。
ですが、実現は可能かもしれません。其の方法は、全員が積極的に賛成することは難しいかもしれませんが、全員が悪くないと思える範囲で合意を形成するというものです。
要するに、「無知のヴェール」という思考実験です。これについていつか又どこかで触れるかもしれません。今回は割愛しておきます。
そもそも、カントは自分で賛成できる法に従うという意味で自由や自律を主張していたのですから、成立して今そこにある法律を神聖視していないと思います。
大事なのは、その法律を自分で考えて、守るかどうかも自分で決めることです。
ちなみに、うまく運用できない場合、最高の国家権力を握る人数は少ないほうが良いそうです。
理由も説明されています。
神の如き権力が一人の双肩にのしかかっているという事実を理解するものであれば、謙虚な心を抱くに違いないからです。

「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。」
第二章の第二条項に行きます。

カントが国家をどう見ているかについて、先述していると思いますが、自律的な人間像をそのまま国家像に敷衍しています。
ですので、諸民族が各国独立して国を維持することが望ましいと考えています。
統一国家のようなものを作ってしまっては、自律も何もなくなりかねないからですね。
各国家は外的な法的拘束力を受けることなく、統治体制も統治方法も多様であっていいのです。
ある国では投票を数度重ねる中で選ばれたものに最高権力が認められる場合もありますし、ある国では神話的な正当性をもって最高権力が認められる場合もあります。
様々ですが、各国家が自律しているので、他国は強制強要できません。未開人の集落だからといってずけずけと文明人が押し入って、あれこれ口出して良いわけではないのです。
これでは、国の上に位置する連合を設けるのが難しそうです。

ですが、カントは続けてこう言います。
人間には未だ顕在化していない大きな道徳的素質があるので、悪の原理に打ち勝つことが出来そうです。
だとすると、道徳が何を意味するかはさておき、道徳的であることを欲するという意味で、道徳は普遍に違いありません。
それ故に、永遠に全てのの戦争が起きないことを目的として、平和連合を諸民族の上に設置する契約を結ぶことは可能だと言えるでしょう。

さて、人間は理性的存在者と叡智的存在者の二面で生きており、目的の国という共同体に自ら参加しているかのように振る舞う事ができます。
「国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家(civitas gentium)を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。」(47頁)
引用した文章は、国家が平和連合へ加入する論理に敷衍されていることがよく分かる一文だと思います。

「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。」
それでは、第二章の第三確定条項です。
世界市民や友好という言葉が登場しますが、その内容は恐らく予想されているようなものではないと思います。
というのも、個々での友好は、国を訪れた外国人が平和に振る舞う限り敵対的な扱いを受けなくて済むという意味なのです。
本文の言葉を借りれば、友好的であるというのは、客人の権利があるということではなくて、訪問の権利があるということなのです。

ここまでカントの話を聞いても、やはり何か理想論のように聞こえるかもしれません。
「地球上の諸民族の間にいったんあまねく行きわたった(広狭さまざまな)共同体は、地上の一つの場所で生じた法の侵害がすべての場所で感じ取られるまで発展を遂げたのであるから、世界市民法の理念は、もはや空想的で誇張された法の考え方ではなく、公的な人類法一般のために、したがってまた永遠平和のために、国法や国際法に書かれていない法典を補足するものとして必要なのであって、ひとびとはこうした条件の下においてのみ、永遠平和にむけてたえず前進しつつあると誇ろことができるのである。」(55頁)
少なくとも、カントは全く現実味がないと考えていないようです。
もう少し踏み込んで解釈してみます。
科学技術の発達によって生活は便利になりましたが、相対的に地球は小さく近くなりました。
東京大阪間を歩いて移動していた江戸時代から東京大阪間を飛行機で移動出来る現代になったというようなことです。
交通は近くなりましたが、情報は遥かに近くなりました。知ろうと思えば、僅かな時間で地球の裏の出来事を知ることが出来ますよね。
このような各地域の接近という事態は、資本主義の拡張の一帰結であると同時に、同情可能な対象が著しく増えたともいえます。
世界規模での監視社会になったとも言える気がしますけれども。
ともあれ、科学技術が発展した以上、私達はより世界市民的でありやすくなったともいえます。
このように考えることができれば、カントの主張に現実味が帯びてくるような気がします。

まだまだ補説と付録が残っていますが、ひとまず『永遠平和のために』の中でカントが言わんとすることはお伝えできたかなと思います。
今回はこのへんで筆を置きたいと思います。

第一章は予備条項でした。どういうことかというと、第一章の条項達成は将来的に必要とされるものです。誤解を恐れずにいえば、目標でしょう。
第二章は確定でした。予備条項を成立させる為に不可欠な原理だと考えても差し支えがないように思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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