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【交換日記】たぶん一年で360日は襟付きの服を着てます

フォレスト・ガンプという映画をご覧になったことのある方は多いかと思いますが、それに対する感想は大きく分かれると思います。私自身、今まで何度も観てきた映画ですが、その都度感想が変わってきました。

最初に見たときはまだ幼いころでした。その頃の感想は、ガンプに対してイライラするようなものでした。作中、ガンプの知能指数は75であると触れられている通りですが、ガンプは知的障害を持っているのにも関わらず、母親の教育方針(というよりこれは人生観ですね)によって普通学級に通うことになります。知的障害があるから仕方ないことであろうとは思いますが、周囲の空気を読まずに自分の考え、価値観を通そうとするガンプに対して「なんでこの人はいい歳して当たり前のことができないのだろう」とイライラする感想でした。

中学生くらいのときに観たときの感想は、ガンプへのイライラに加えてダン中尉に対する「哀れみ」の感情でした。自身で死ぬべき場所と定めたところで死ねず、両足を失いながらも生き延びなければならないダン中尉のことが不憫で、だからこそ自分の価値観、死生観に基づきダン中尉のことを勝手に助けたガンプに、またイライラしました。

この頃になるとフォレスト・ガンプという映画がなぜここまで評価されているのか理解できず、「これは戦後日本の道徳教育にふさわしいような、人命第一、平和第一主義思想がベースにあるから評価されているんだな」という中二病くさい感想から、なんとなくフォレスト・ガンプを避けるようになりました。

どういった経緯かは忘れましたが、次にフォレスト・ガンプを観たのは大学生ときでした。当時付き合っていた彼女の家で観た気がします。このときの感想は、「ジェニーってなんて○女なんや!!」というイライラでした。ストリッパーにまで落ちぶれた自分のことを愛してくれる存在がいながら、一瞬だけフラっと戻ってきてヤることだけヤって、何年か経ってから「これはあなたの子供よ、私は死ぬから頼むわ」ってどんだけ自分勝手なんだよ、と。

まだガンプが引き受けると言っていないにも関わらず、翌週のベビーシッターの予定をキャンセルしたり、ジェニーの目が本心を隠しているように感じたり。

その後社会人になってからも観る機会はありましたが、感想は大きく変わりませんでした。

それが先日、たまたま自宅でアイロンがけをする間に鑑賞する用の動画と思って観始めたら涙が止まらなくなってしまいました。

ガンプのこと、ダン中尉のこと、ジェニーのこと。なぜこの映画がここまで評価されているのか、ようやく分かったように思います。

ガンプが最後にジェニーの墓前で言う「僕らにはみんな運命があるのか、ただ風に吹かれてただよっているだけなのか分からない。でも多分その両方なんだろう。多分同時に両方が起こっているんだろう」というセリフの意味がやっと分かりました。

ここから先は一度フォレスト・ガンプを見返して頂いてからお読みいただきたいです。

ガンプは、決して誠実な人であろうとしているわけではないですし、実直であろうとしているわけでもありません。確かに、約束は守る主義だという発言はありますが、特にジェニーに対しては、誠実であろうとしたわけではなく、バスで席に座らせてもらった時に、この人を生涯大切にしたいと腹をくくった、もしくは思い込むことができただけです。そう思い込むことができたのは、ガンプのお母さんの教育方針といいますか、人生観のおかげもあるでしょうし、ガンプが抱える知的障害のせいもあって、お母さんのその教えを信じ込み、疑わないことができていたからに他ならないでしょう。ガンプのお母さんが身を削ってまでしてガンプを普通学級に入れていたのは、お母さん自身の人生観(自分の人生で一番大切にするのはガンプである、と腹をくくっていること)と、それに対する決意の程を示すエピソードだと思います。周りの人に「こうしなさい」と言われたことに対して一切疑いを持たず、それが正しいと思い込んで突き進むうちに、ガンプは億万長者になってしまうわけですが、きっとガンプからすれば、ババに言われた通りのやり方をすればお金持ちになれると言われたからそうしただけだ、という感覚なのではないでしょうか。もしくはババと約束したからエビ漁をしただけなのに、くらいかもしれません。

ガンプにある意思は、ジェニーを大切にしたい、他人との約束を守りたいという2つしかないわけで、だからこそ全米を走りまわっている理由がないことに疑問を抱かかなかったのだと。

もしかしたら全米を走り回ったのは、幼い頃にいじめっ子が現れたときにジェニーに「走れ」と言われたことや、ベトナムに行く前に「危険だったらとにかく走って逃げろ」と言われたことを思い出したのかもしれません。ジェニーが目の前から消えてしまうという、自分自身にとって最も嫌なことがあったとき、助かる方法として自分が知っているのは「走る」ことだったのかもしれません。

「言われたからやる、走りたくなったから走る」ただそれだけ。

ダン中尉の人生観も、実はガンプやガンプのお母さんと似ています。ダン中尉は戦争で死ぬことが自分の家系に定められた運命であるので、死に方は戦死しかないと腹をくくって(思い込んで)生きてきたわけです。ただ、ガンプに助けられて生き延びてしまった。しかも両足を失ってしまった。だからこそ戦後は自分自身の人生に価値を見出すことができないでいた。当然、神様のことをとても恨んだはずです。車椅子で生き恥をさらすような真似を、なぜさせるのかと。しかしガンプとエビ漁を始めて、神様との勝負(大荒れの海での航海)の結果、エビ漁が大繁盛するようになったのを見て「神様と仲直り」することで腹をくくることができた。ダン中尉には生きる目的が欲しかったのでしょう。

生きる目的とは、有名になりたいとか、尊敬されたいとか、大金持ちになりたいとか、そんな世俗的なことでも構わないのかもしれません。結局、腹をくくるのは神様ではなくて本人ですから、本人が腹をくくりたいものでくくればいいのだと。

ジェニーの人生観を理解する日が来るとは思ってもいませんでした。親に大切にされなかった人はとても自由な生き方をするのではないかと感じています。親に怒られたことはあるけど、叱られたことは少ない場合、自分に対しても、他人に対しても責任を持てない大人に育つ傾向があるように思います。ジェニーにとって親は間違いなく一番嫌いな存在ですが、だからこそ、そんな親にすら大切にされなかった自分は、親よりも価値がない人間なのだと感じているのではないかと。確かにジェニーは周りを不幸にしていますが、本当に不幸なのは、周囲をそんな不幸に囲まれたジェニー自身なのだと見ることもできます。

どうしたらジェニーの人生をより良いものにすることができたか考えてみたのですが、ジェニーはジェニーで、自分の人生をより良くするために考え抜いた結果が、あの人生なのだと気づきました。

人生を幸せにするためには、時には腹をくくることが必要ですが、なにで腹をくくるかは自分で決めなければなりません。周りの空気感とか、強要されたり、言いくるめられてくくった腹では、必ず我慢の必要に迫られます。別に我慢を続けられないことはないのでしょうが、人生を左右することの選択で我慢をすることになると、その我慢には限界が来ます。

ジェニーは、「自分の幸せには絶対的に自分を愛してくれる人、肯定してくれる人が必要だ、それはガンプだ」と腹をくくらねば幸せになれない運命でした。ジェニーにはその腹をくくるタイミングはいくつもありました。ストリップ劇場、反戦集会、ガンプの家を訪ねたとき。しかしどのタイミングでも、ジェニーは「やっぱり他の男を探したい」という欲求に勝つことができませんでした。

別に、そこで腹をくくれないのが運命だったとは思いません。それはガンプのお母さんの言う「チョコレート」みたいなもので、そこでどちらを選択するかは自由だったのではないでしょうか。

ただ、ジェニーはガンプ以外の人とは幸せになれないという運命だけは、変えられないもの、定められたものだったのだと思います。結局ジェニーがガンプというチョコレートを選ぶことができたのは自分の死期を悟ってからのことでしたが。

だからといってジェニーを馬鹿にすることはできません。彼女は確かに馬鹿なことをしているように思えますが、知的障害のある幼なじみのことを運命の相手だと腹をくくることは、そんなに簡単なことではないと思います。

ガンプの子を身ごもった夜もそうです。ガンプが大金持ちになったからフラっとガンプのところにあらわれて、ガンプと結婚するというのは、自分の昔を知っている人たちからすれば、「玉の輿に乗るために知的障害者と寝た女」と噂されかねないでしょう。だからジェニーはタクシーに乗るときに「逃げるのではない」と言ったのでしょうし、ガンプのお母さんの言葉である「前に進むためには過去を捨てるしかない」という言葉の意味も重みを増してきます。

ジェニーにとっては前に進むことは過去と向き合うことで、過去と向き合うということは、昔を知っている人たちが自分を見ても「しっかり自分一人の力で生きている」と思ってもらえる自分になること。ただ、そんな過去をバッサリ切り捨てることができたら、どんなに楽だったでしょう。一番切り捨てたかったのは、ジェニー本人でしょうから、より辛いお話です。

ガンプのプロポーズを受けられないということは、自分がここにいる理由がなくなってしまったということ。ということは、ガンプとは二度と会うことがないのかもしれない。だから子供ができるかどうかは別としても、一度ガンプにちゃんと抱かれてみたかったのでしょうし、男に頼らず生きていくに当たり、最後に抱かれたい男の人としてガンプを選んだとも言えますね。これがジェニーなりの過去の精算の仕方で、前を向くために必要な手段だったのかもしれません。

身体の関係を持つに当たって、誰を最初にするかはきちんと選べないところがあるかもしれますが、そうだった人も、最後を誰にするかは選ぶことができますね、と考えると何となくいい感じですね。

ジェニーの人生の中で定められた運命というのは、「周囲の人達からの評価を気にせずに、純粋に愛と向き合うこと、愛を受け入れること、見極めること」がテーマだったのではないでしょうか。何歳で誰と付き合うとか、子供を産むとか、死ぬとかは関係なしに。あのまま子供と二人っきりで生活して行く人生では、このテーマを満たすことができません。だからこそ最後に不治の病にかかって、子供のためにガンプに連絡を取らざるを得ない運命が舞い込んできてしまった。

そもそも、ジェニーが過去に(恐らくは性的に)奔放な人生を歩んでこなければ、ガンプとの一夜に際しては適切な避妊処置をしていたか、そのような行為には至らなかったはずで、そういう過去があったから子供を作ることができたと見ることもできます。だからこそジェニーにとっても、最終的にはガンプにとっても、ジェニーが若い頃奔放な生活を送っていたことは、最終的にはプラスに働いています。そこまで考えると、運命とはどこまでが定められたもので、どこからがフラっと舞い込んでくるものなのかは分からなくなります。

もしかしたら、反戦集会で再会したガンプとそのまま結婚していたら、ジェニーはもっと長生きすることができたのかもしれません。純粋な愛に向き合うことができたので、また新たなテーマが出てくることになるという意味です。

だからジェニーは馬鹿なことをした馬鹿だとみなす見方をすることもできますし、私自身かつてはそういう見方をしていましたが、実際はそうではないのかもしれません。ジェニーのその時の価値観では、ガンプと一緒になることは幸せではなかったわけですから。再会したときに「自分はガンプと幸せになりたい」としっかり腹をくくることができなかったジェニーは馬鹿なのではなくて、もっと自分が何を大切にしたいのか内観する/させられる経験が足りなかっただけです。

小さい子供が自転車に乗れないで練習している様子を見て「馬鹿だ」と言う人はいないのと同じことで、出来なくて当然であることというのは身の回りに溢れています。

年齢には関係なく人生の捉え方には段階があって、芦田愛菜さんのように人生を50周くらいしている人たちと、私のように人生初見プレイヤーとの間では、見かけ上のレベルではない部分で、人生に対する腹のくくり方に大きな違いがあります。一度きりの人生であることには変わりがないのですが、

「一度きりの人生だから失敗しないように完璧に生きよう」

という捉え方をするか、

「一度きりの人生だから、いろんなことに挑戦しよう」

という捉え方をするか。この違いは人生何周目かによって変わってきます。

そういう観点から見ていくと、フォレスト・ガンプの邦題には副題として「一期一会」という言葉が添えられていますが、これはなかなか妙な副題です。今まであまり気にしていませんでした。

「一期一会」という言葉には「たくさんの人と出会い、その出会いをもう最後だと思って大切にする」というニュアンスを含んでいるように思いますが、フォレスト・ガンプのストーリーの中では、主要な登場人物はあまり多くありませんし、最後の出会いとすべきだったのはババくらいです。

一期一会という副題はジェニーに当てられたものなのではないでしょうか。ジェニーはたくさんの人に出会い、しかもその出会った相手のことを、本当の意味で大切にできない性分だったように見えます。ただ、最終的には自分を本当に大切にしてくれる存在は幼なじみであるガンプでした。そんなガンプの自分に対する気持ちを知らなかったというわけではありません。ガンプとの出会いというものが、昔から知っている相手であるが故に、ありがたみを感じにくいところはあるでしょう。

息が吸えることに感謝する人がいないように、人間というものは最初から持っていたものの価値にはなかなか気づきにくいものです。それでなくても、知的障害があり、かつ親に虐待されていたという最大のコンプレックスを知るガンプは、ジェニーにとっては理想の相手にしにくいところもあったのでしょう。

自分が大切にされてこなかったから、相手のことを大切にすることはできないし、逆に自分が大切にされているという感覚も鈍りやすいのがジェニータイプの人です。大切にされているという感覚が近視眼的になりがちなので、それこそジェニーのように、暴力を振るわれたり、薬物漬けにされたりしてもあまり重要視しないようになってしまいます。

ジェニータイプの人は多くいるように思いますし、こういう人に出くわしてしまったことも何度かありますが、本当に難しいです。引っ張りあげようとしてもダメだし、一緒の目線に立とうとしてもダメだし。ジェニータイプの人をみていると、結局のところ、自分の人生をどうしたいかは本人にしか決められないんだな、ということがよくわかります。

最近知り合った方とお話をしているときに、その方がこんなことをおっしゃいました。「自分が誠意を持って向き合えば、相手も多少は誠意を見せてくれる」と。私も同じように感じるところがあります。性善説が正しいと思うのですが、人というのは「善」の部分に蓋をしがちで、相手によってその蓋の重さが変わってくるような印象を持っています。誠意の欠片もないような人というのはいますが、それはその人の誠意を引き出すことができない自分が悪いのであって、相手に腹を立てても仕方ありません。

似たお話で理想のタイプのことを「一途な人がいい」と言う人がいますが、その相手の一途な面を引き出すことができるかどうかの問題なのであって、そういう気質を相手に求めるのはおこがましいし、もしかしたら無意味なのかもしれません。「お付き合いする相手には一途であり続ける人」というのは一定数いると思いますし、そういう人に惹かれる気持ちがないわけではありませんが、遊んでた人が自分と出会ってからは自分しか見ないようになってくれた、という方が私は生きがいを感じます。

ジェニータイプの人への向き合い方も同様で、奔放でフラフラしている状態を落ち着かせたいのであれば、その環境から無理やり引き離してやるのではなく、ジェニー自身が落ち着きたいと自分で気付くのを待ち、自分のところを落ち着いている場所だと認識させる他ありません。

自分で望んで手に入れた環境でなければ、その環境のありがたみは分かりませんし、本人の成長のためになりません。まぁ、私だったらそんな面倒な人の相手はしたくないですし、だからこそガンプはすごいということになります。

では自分自身がジェニータイプで、しかも周囲にはガンプのような人が見当たらず、自分を変えたいと思っている場合はどうすればいいのでしょうか。

変わりたいと思って、自分の人生をどうしたいか、自分がどう在りたいかを決めるということは簡単なことではありませんが、実は、それを「表現」することは非常に簡単です。

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【TつぐからMくんへの質問】

Mくんにとってオシャレとは?

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それはオシャレをすることです。オシャレとは理想の自分を演じる、一番手っ取り早い方法です。

オシャレは理想の自分を演じることに他なりません。他人にどのように見られたいかを自分でプロデュースすることです。落ち着いているという印象を与えたいのか、明るい人だという印象を与えたいのか。

カッコいいとか、かわいいと思われたいというのはオシャレのように見えますが、実質的にはオシャレではありません。何をカッコいいとか、かわいいと思うかは人それぞれです。キレイ系の服装をかわいいと思う人もいるし、アウトドア系の服装をかわいいと思う人もいます。キレイ系の服装の中で、カッコいいとか、かわいいものを決めるのがオシャレです。

どんな自分を演じたいか、どんなファッションをしたいのかが分からないという場合は、まずは自分に似合うものを探してみればいいでしょう。なにが似合うか分からない場合は、着ていて恥ずかしいと感じないジャンルの服を着ればいいのです。演じるのが恥ずかしくなってしまっては演技だってバレバレですから。演じているうちに言葉使いや立ち振る舞いが変わっていくこともあるでしょう。

言葉や立ち振る舞いに気を付けることの大切さについては、以前↓でお話いたしました。

https://note.com/mkun_37210/n/n03c18ccc888b

オシャレを毛嫌いしたり、オシャレに気を使わない人もいますが、もしかすると、理想はそういった状態かもしれません。理想の自分がどんなものか分かっていて、演じるまでもなくそんな自分を表現することができているのですから。

自分の理想の自分を演じる、ということを意識することは、本当の自分の意思や希望とそぐわない結果につながるのではないかと懸念される人もいるかと思います。しかし、そもそも自分の本当の意思や希望がわからないから悩んでいるのです。それであればあえて自分の中にもう一人別の人格を作り上げて、もう一人の自分を演じることによって、自分の本当の意思や希望を探してみることは、悩んで立ち止まっているよりも気分が楽になるかと思います。

そうした悩みですが、本当のところ、無理に結論を出そうとして悩むから辛いのであって、本当に欲しているのは本当の意思や希望を発見することですらなく、そうやって悩んでいる状況から脱却することではないでしょうか。

脱却する方法は悩んで答えを見出すこと以外にもあるはずです。頭に浮かんでくる方向性や理想像は、それらが互いに真逆の方向を向いているものであったとしても、両方とも自分の望みであるはずです。その両方を大切にしていいと思います。

あくまで「もう一人の自分」としてその一つを試してみさせて、うまく行ったらそのまま行く、行かないのなら他のもう一人の自分を作って逆の方向に行ってみるのはいかがでしょうか。

具体的にその手段や考え方というものは、ケースバイケースで変わってきます。100人の人生があれば100通りの手段や考え方があるでしょう。特に恋愛というものは、「普通の恋愛」というものが成り立ちにくいものです。大半の恋愛は「特殊な事情のある恋愛」になるかと思います。

ですので、自分の場合はどうしたら良いのだろうとお悩みになった際には、Mらじの質問箱に投稿してみてください。もしかしたら100人に1人くらいは、お役に立てるかもしれません。1人でもお役に立てればMらじには価値があると思っています。

次の交換日記は。。。KCちゃんです

【MくんからKCに質問】

KCちゃんはよく「病みのゲームの始まりだ…」と言いますが、「病みのゲームってなんですか?神経衰弱?」

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