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野いちごを君に【シロクマ文芸部】

詩と暮らす
そんな書き置きを残して、彼は突然私の前からいなくなった。

どーいうこと?
彼が趣味で詩を書いていたことは知っている。
だけど、詩と暮らすって…

彼に電話したけれど、電話の呼び出し音が鳴るだけで、その後彼からの折り返しもない。

まさか、うたとかいう女ってことあるかな…
まさかね
わからないけど、振られたってことよね…

それから1年後。
1冊の詩集が送られてきた。

「花と緑と思い出と」

送り主は出版社だったが、その作者のところに彼の名前があった。

その詩集には、
美しい自然や、
穏やかな日々の暮らしの様子が詰め込まれていたが、それだけではなかった。

君が好きだと言った野いちごが、
たくさんなっている
赤い野いちご、
黄色い野いちご
その香りと甘さを君に届けておくれ
灰色の世界で、
野いちごを思い出すこともなく
暮らす君へ



私が野いちごが大好きって、覚えていてくれたんだ…
私は、その他にも多くの詩の中に、私がいるのを感じた。

まだ、彼の心の中に私がいる。


おそらく優しさから、一人で出ていったんだろう。

巻末の緑の風景の中に佇む彼の写真。
私はその写真のバックに映る山の形に見覚えがあった。

静岡の奥地の小さな山村。
そこに広がるひまわり畑を見たいんだ…
と言って、かつて二人で何時間もかけて行った時に見た山の形。
その時にひまわり畑の中で撮った写真がお気に入りで、長らく部屋に飾っていたので、よく覚えている。

私はその場所に行き、あちこち訪ね歩いて、ようやく彼を見つけた。

彼は、私をみて驚いた顔をした。
どうしてここに?

あなたと詩の生活に、現実の私も入れていただくことはできませんか?

君、仕事が…
こんな山の中だし…

モゴモゴ言っている彼に、私はとびっきりの笑顔で答えた。

私、結構な田舎で生まれ育ってるのよ。
この場所、私も大好き。
それに今は、これがあれば仕事できるの!

そう言って、左手に持っていたノートパソコンが入った袋を少し持ち上げた。

真っ黒に日焼けした彼の顔に、あの大好きなくしゃくしゃの笑顔が広がった。

思わず彼に飛びつくと、草の匂いがした。


シロクマ文芸部

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