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【読書録】大島眞一『Q&A医療訴訟』(判例タイムズ社・2015)

 この本で特に気になった部分を好き勝手に検討したい。そもそもこの本は、入院中、父(普通の会社員)に「暇やから本棚にある本なんでもいいから持ってきて」と頼んだら、何を思ったかこの医療訴訟の本を持ってくるという事件?があったので表紙を隠しつつ読んでいた。(しかしリハビリとか看護師さんと喋ってたらそんな読み進めず笑)退院してから、医療について感度の高いうちに最後まで読み切った。
 そもそもこの本を買ったのは、大学院でとった医事法の講義レポートで、この本の基になった論文 (大島眞一「医療訴訟の現状と将来―最高裁判例の到達点―」判タ1401号(2014年)7頁。言わずもがな著者は要件事実の本などでも著名な誰もが知る裁判官である。)の的確簡潔な分析を参考文献にし、とても勉強になったからである。
 

 Q&A形式の本はよくあるが網羅的、体系的なものは少ない。しかし、この本は医療訴訟の現状や基本的構造といった総論から、救急医療、予防接種といった各論まで網羅的、体系的に書き起こしている。はしがきで「法律家ではない医師等の医療関係者や関心のある方をも念頭に置いて記述した」とある通り、通読すると医療関係者が巻き込まれそうな法的問題の全体像が掴める一冊である。大阪地裁の医事部に在籍した経験も踏まえ、判例をもとに客観的に分析されているが、判例がない場合の私見も一文、二文ながら鋭く、読み応えがあった。
 また法益が生命身体という重要性から、医療訴訟は不法行為の分野で理論的に興味深い深化を遂げている。その代表格といえる医療水準論、相当程度の期待可能性、医療機会論も詳しく取り上げ、分かりやすくまとまっている。それらについては予防接種(国家補償の谷間)も加え、別稿でまとめたい。
 以下では、印象に残った項目の中で特に感想がある部分を検討したい。

集団検診(46頁)

 職場や学校の定期検診における胸部レントゲンは、鮮明度が低く制度に限界があるようだ。そのような精度では見落としはやむを得ないとして、求められる医療水準も下がるのではないかという議論がある。一方、医療水準が下がり見落としもやむを得ないとすれば、一体何のために健康診断を受けているのかといったことにもなりかねない。この点について著者は、あくまで一般の診断と同様の医療水準を求めるべきであるとしている。(現実には難しいことも認めている)(46頁)
 私の感想としては、医師や検査技師の過失というより、そのような検診、診察環境を強いている医療機関あるいは集団検診を実施している会社、学校の過失を考えても良いのではないかと思った。そしてあの集団検診ってそんな過酷な環境だったのか。。。

救急医療における医療水準(164頁)

 救急医療につき、当直医が専門外で適切に対応できなかった場合に過失ありといえるか。現実として人手不足であり、医療機関の責任を認めると撤退を促すとして過失を否定する見解もある。著者は、損害の公平な負担という観点から看板を掲げている医療機関が責任を負うべきとしつつ、医療不足の構造的損害ともしており(164頁)、説得的である。加えて私見としては、人手不足を放置し、専門外で対応せざるを得ない環境を強いている医療計画を作成している自治体にも責任が問われるのではないかとも感じた。

受け入れ拒んだ場合(166頁)

 受け入れを拒んだ場合や拒まざるを得なかった場合も、医療計画を作成し、医療体制を敷いている自治体や全体の医療組織的システムとしての過失が問われても良いように思われる。

過失の設定と因果関係(122頁)

 「より早期の過失を主張すると、因果関係は認められやすい反面、過失の点では難しくなり、死亡に近い時点の過失は認められやすいが、因果関係が難しくなるという関係にある」(122頁)例えば、レントゲン検査における腫瘍見落としを考えると、早期の過失を主張すると、この時点で見つけていれば助かったという因果関係は認められやすいが、そんな小さい腫瘍を見つけられたかといった点で過失があったかは微妙である。一方、死亡に近い時点の過失を主張すると、腫瘍が大きくなっているのに見落としたといった点で過失は認められやすいが、たとえ見つけていてももう手遅れで手の施しようがなかったとなれば因果関係は認められない。以上のような事例を考えると分かりやすいと思う。
 著者は過失を無理に1つに絞る必要はないと言っており、私もその通りだと思うが、その過失の設定に弁護士としてのセンスが問われるのかなと思った。

説明義務違反による損害(144-145頁)


 説明義務違反が認められるが、医療行為は医療水準にかなったものであった(しかし悪い結果が生じた)場合、医療行為に過失があった場合と同様に休業補償、逸失利益、慰謝料等の損害が認められる。(145頁)
 説明義務と悪い結果は相当因果関係にあり、理屈は分かるものの、医療水準は満たした治療を行っているにも関わらず、認容される損害が同じというのは少し違和感を感じる。インフォームドコンセントの重要性か。本当に認容額は異ならないのか判例みてみても良いかも。過失相殺とかで対応しているのかな。

転医義務(69頁)


 転医義務とは、患者を適切な医療機関に転送して適切な医療行為を受けられるようにすべき義務をいう。医療水準とされている医療行為を自ら行うことができない場合に転医義務がある。(69頁)個人の病院から総合病院、大学病院へ紹介状を書く場合を考えれば分かりやすいと思う。
 私見としては、転移義務が問題になる際、転医させるべきかどうかという判断が医療水準を満たしていたかが問われることになろう。そこで、転医が必要になるような重大な疾患を見つけたならば、医師といては自分の手に負えないと速やかに紹介状を書くのが通常であり行動心理だと思われる。そうすると、そもそも転医が必要になるような重大な疾患を見つけられたか見つけるべき過失があったかという問題と、転医義務の問題は近接するところがあるように思った。

和解(2頁等)


 訴訟が終結するとき、和解が50%(2頁)とあった。和解の問題点として労働事件などでも口外禁止条項がついて他の者がいかせず社会的な影響力が削がれる、あるいは研究対象にならないといったことが挙げられる。医療訴訟は特にこの和解が多いとなると、その和解事案のうちそれはどこまで研究対象になっているのか、学問的な知見として蓄積されているのか疑問に感じた。それは法学研究だけでなく、投薬後、術後の経過など医学的な臨床研究についても言えよう。臨床研究としては匿名処理をした上で臨床データとしていかされているようにも思われるがそれは各医師、各医療機関の性格や意欲にもよると思われる。
 口外禁止条項をつけることで和解を促す要素にもなりうることも考えると、難しい問題であるが、臨床研究としては後学のために活用するのが望ましいし、法学研究としても闇に葬るのではなく、いかす道を考えるべきではないか。
 医事法だけでなく、和解の問題点にもつながる大きな問題である。法学、判例研究の場合、性犯罪、未成年事件などでは匿名化されることはあるものの、基本的には実名で判決文になる。これは架空の事案ではなく実在性を担保する意味合いもあろう。
 和解した事案につき、匿名、抽象的にこのような争点があったと発表するシステムができれば、学問の発展に寄与するのでは?とも思った。(前述の実在性は課題か)

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