鈍龍削殺城 反曲点

 伊根の亀には亀なりの後悔があっただろう。そのはずだ。そうであって欲しい。甲羅に一人の男を乗せ、海の底から陸へと上がる潮の流れを選んで進む亀。命の恩人を楽園から暴力の現場に送り返す亀。上では二人の出会いの日から三〇〇年が過ぎている。羅上の人はそれすら知らない。亀は黙っていた。仁義を果たした生き物が、恩人を絶望の淵に運んだのだ。その心にミリの憂鬱も無かったとすれば、この世は悲しすぎる。

 亀はどうして平気だった? 亀は、人という種がウラシマ効果を気にしないとでも思ったのか。本当に何も知らなかったのか、姫の言いつけを破る勇気が無かったのか。あるいはもうとっくに恩人を見放していたのかも知れない。楽園での腑抜けな振る舞いに、せっかく案内した城を出て行くという男に、すっかり呆れていた線はある。命の義理に買い被っていたが、なんだこいつは、こんなにつまらない男だったのかと。

 落胆も後悔には違いない。その作用は理解できる。そして動揺する心があったのなら、せめて物語は救われるだろう。そこに悲しむ亀がいたのなら、世界はまだ捨てたものじゃない。

 だから僕の番が来たら、そのときは全力で恩人を想ってやるのだ。そいつが実際どんなクズでも一緒に笑って泣いてやる。末期まで見届けて世界中に語り継いでやる。そして言うのだ。三〇〇年が何だ。お前には伊根の亀が、僕がいるじゃないか。

 血と砂の混ぜ物を唇から真下に垂らしながら、寿太郎はそのように考えていた。地につく手足の根元、その背中に甲羅はない。ただの人の肉体に、流れコボルトの爪はよく刺さった。

 麻のコートを破った傷が夜雨に濡れていた。雨水が洗い流す血は濃く明るい。寿太郎は意識を失わない。そこにはまだ出血が足りない。寿太郎には助けを求めて這い回る体温がある。同時に寿太郎は自分が、人類の敵が決まって愛する常套戦術に組み込まれたことも理解している。

 そして泥を踏む足音を聞いた。 【続く】

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