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崇高なる油そばの世界

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 油そばという食物があるということを知ったのは大学に入って上京してきてすぐのことだった。90年代の後半である。それまで暮らしていた木更津には当たり前にラーメン屋がそこかしこにあったのは言うまでもないことだけれど汁が無い形態の油そばというものを出す店というのはついぞ目にしたことがなかった。上京して高田馬場にあったミニシアターでバイトをはじめ、馬場の町をよく歩くようになった。古書店にも目が行ったがそれ以上に木更津では見られないようなラーメン屋の密集にも驚いたもので、そのなかに「油そば」という看板を出している店があったのを見たのが僕がその食物の存在を知る初めてのことだった。そばであるのだから麺類の一種には違いはなかろうと思って、そして店構えからするとどう考えても日本蕎麦ではないような気がしたから、それがラーメンに近い味のものであるのだろうなという推測はすぐについた。ただその時はさほどその食物を食べてみようという気は起きなくて、そして馬場でバイトしていたにもかかわらずラーメンを積極的に食べるということも実はあまりなくて、唯一記憶に残っているのが雇主に奢ってもらった「えぞ菊」の札幌味噌ラーメンぐらいのものである。
 それからの僕は映画マニアでもあり続け、かつハウスやテクノのDJをはじめた。上京してからDJをはじめて、21世紀のはじめぐらいからは人前に立ってプレイするようになった。DJというのはだいたい夜中に活動するものであって、そのイベントなりパーティーというものは基本的には多くがオールナイトである。それでオールナイトのパーティーにはアフターアワーズというものがつきもので、一晩中飲んで踊って騒いでのあとにすぐに始発で解散というのは味気ないものでもあるから、そうなってくるとちょっとどこかで飯でも食っていこうかということにもなる。僕がDJをしていたのは渋谷が多かったから、渋谷の朝方にやっている店でパーティー後のチルなりワントークはよくやったもので、「山家」で昼までなぜかトークしていたりだとか、いまはなき渋谷駅ガード下の喫茶店が早朝からやっていたものだから、そこに入ってこれまた昼まで居座ったりしたこともあった。そして胃の状態も健康的で腹が減っているという感覚を覚えていたならアフターの場はラーメン屋でもあった。そんなあるパーティー明けの朝、何を食べるか迷っていた僕たちは渋谷の街をどうしようかとさまよっていたわけであるが、そのとき友人のひとりが「油そばなんてどう」とひとこと言ったのだ。そのときに「油そば」というただ名前だけ知っていた食物のただ名前だけの記憶がよみがえり、空きっ腹だったのかそのときに直感的にそれを食べてみたいと思ったのだった。酔っぱらっているさなかのそのタイミングでのひとことが、おそらく僕を意識的に「油そば」という食物への尋常ならざる興味へと導いたのは間違いがなかった。しかしその時の朝はやっている油そば屋、もしくは汁無しを出すラーメン屋がなかったためか、記憶が正しければ、たぶん食べてはいない。僕が油そばに本格的にはまっていくには、その後もう少しの年月を待たなければならなかった。
 
 
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 そうしてからたぶん何年か過ぎた頃、もう2010年代には入っていたと思うが、僕は仕事で中野の街を歩いていた。仕事の前か後かの記憶はないのだけれど腹ごしらえをしようと思って目についたのが油そばの店だった。サンプラザから少し行ったところにあるその店「東京煮干屋本舗」の看板を眺めていると好物のしらすをトッピングしたメニューを発見し、これはと思って入店したのを覚えている。しらすに惹かれたということが第一要因であるとしても、その味が期待通りの絶品であったことも手伝ってか、僕はこの時から意識的に油そばを食していくことになる。
 そうはいっても最初に意識的に食した油そばはいわゆる「正統的」なそれではなかったのである。その後知ることになるルーツとしての「珍々亭」や「宝華」といったベーシックに醤油ベースの油そばではなかった。しかしながら、東京を歩けば油そば屋に当たるというほどでもないけれど散歩のひとつでもすれば「油」と大きく書かれた看板に出くわすことはその頃の2010年代ではもうまれではなくて、意識して食べていこうと思い始めた僕はさまざまな店に入り、食し、いつからかインスタに「#崇高なる油そばの世界」とタグを打って記録も始めることにした。知らない駅やはじめて降りる駅ではそこに油そば屋がないかを探したし、油そば専門の店でないラーメン屋でも「汁無し」「まぜそば」を提供しているところもあったりするものでそういうところをチェックしてみるのも好きだった。好きが高じてくるとそれはもちろんルーツとなる店の味もしっかりと押さえておかねばなるまいと思って武蔵境の「珍々亭」にも行った。ふらりと入るのではなく「お目当ての店に行く」という行為は油そばに限らず僕はついぞしないのだが「珍々亭」に赴いたときはそのついぞしないことをやってみた。ついぞしないことをわざわざするということは別に嫌々やることではなく重い腰を上げるというわけでもなくただその店に行ってみたいという思いにしっかりと突き動かされている欲求なのだった。食通でもなんでもない僕がそういうことをしているということはつまりそのジャンルにハマってしまったことを意味する。油そばという料理の1ジャンルに、ある種の沼に、片足、いやもしかしたら両足をもう踏み入れてしまっているのかもしれなかった。かもしれないではない、踏み入れていたのだった。それは今ももちろん続いている。
 
 
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 では油そばの魅力とは何か。そのあたりの話に移ろう。
 油そばは中華麺にタレ、汁を絡めて(自分で混ぜて)食すものである。味の種類は醤油味がもっとも一般的とされるが、塩、魚介系など、さまざまに存在する(ただ、味噌は大変に少ない)。トッピングされる具材は多くがメンマ、チャーシュー、ネギ。さまざまなオプションとして味玉、温玉、チーズ、納豆、キムチなどもある。そして油そばの食作法を特徴づけるものとして「味変」というものがある。味変とは、テーブルに据えられたラー油、酢、にんにく、マヨネーズ、刻み玉ねぎなどを自身の好きにどんぶりに入れ、そして混ぜ、もともとの味からの変化を愉しみながら食べることをいう。この味変に関しては、もちろん味変しなくてもよいのだが、それをすることこそが油そばというジャンルを特徴づけていることは特記しておくべきだろう。もちろん、ラーメンにおいてもコショウやにんにくなどを入れることはあるが、油そばに比べるとその点に重点は置かれない。ラーメンにはスープがあり、そのスープの味を破壊してしまうような過度の味変は、おそらく歓迎されないだろうからだ。それに比して油そばはむしろ味変をすることこそが推奨され(比較的多くの店では、席に「油そばの食べ方」というように、ラー油や酢の使い方を掲示してくれていたりもする)、食べる者自身の「お好み」を作り出すことも、油そばがもつ食の愉しみのひとつなのである。
 
 ところで、やはり油そばはラーメンのサブジャンルにすぎないのだろうか。歴史的にみれば、ラーメンがなければ油そばも存在しなかっただろう。それは間違いない。しかしながらすでに50年以上の歴史を持つその料理は、時間の流れとともにさまざまな歩みを経てきたものだ。僕はここで、現時点において、もちろんサブジャンルとしての存在でも<あった>ことは認識しつつも、先に書いたような味変を含めたジャンル的独自性をもって、つまりは「汁無し」という言葉に象徴されるようにそのジャンルのアイデンティティを「ラーメン」からの欠如性(スープの「ない」こと)に求めることはもはや無効であるということは少なくとも述べておきたい。「油そば」というジャンル名が示しているのは、名が体を表すかのごとく料理そのもの様態なのである。油で和えるそば、ということにほかならない。それはもちろん、国民食とされるラーメンからの差異化が単語自体のうちに含まれているということだ。重要なのは、サブジャンルであることを自認しつつも、料理そのもののありようをシンプルに言い表すことが「なまえ」として世間的にも定着したことにより、サブジャンルからの「独立化」を可能性として内包しているということなのである。商業的にも発展していることは言うまでもないが、食文化としての味の「混淆」こそが油そばが辿ってきた道である。タレ、汁と麺があればそれは成立する。その原則にさえ従えば味の自由は無限であり、かつ、味変という行為がそのジャンルの「正統性」としてあるのならばさらにその無限は「食すごとに」増大し、それは味わう経験の能動性をも倍増させる。つまり味変はその料理に、料理人がのみならず、食す者も参与していく過程だからである。混淆、混ぜること、それは料理の、味覚の自由の歴史的発展に向かって箸を握るということの実践的行為でもあるのかもしれない。

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 さてここからは油そばに関する言説について考えていこう。しかし、言説、といっても僕たちに確認できるそれはほとんどない、というのが悲しいかな事実である。油そばについてまとまって書かれた文章というのがこれまでに存在したのかどうか。まあ、まだ本気で探索していないのでなんともいえないのだが、食に関するエッセイ、評論、そうしたもののなかで、油そばが取り上げられたことはほとんど確認できない、というのは正直なところで、言説を検討するもなにもその言説そのものの歴史的蓄積がほとんどないのだから、もはやなすすべもない。油そばは日本においてどのように語られてきたのか、食文化のなかでどのような位置を占めていたのか、についての研究は、膨大な暇と時間があり、経済的にも富豪のような余裕がなければそれに費やす機会などなさそうだ。というわけでここで、ひとまずは想像の中で「油そば言説空間」を作ってみるという試みをしてみよう。今まで書かれていなかった、食文化エッセイのような形のものを、たとえば油そばの60年代あたりの受容を想像しながら、パスティーシュという手法を借りながら捏造してみよう。そのような想像力を働かせることで、油そばの歴史への足掛かりが掴めるのではないか。いや・・・無駄か。無駄でもいい。まずは吉田健一が油そばについての文章を書いたらどうなるか。この文体モノマネ芸からはじめてみよう。無駄だということは知りつつも。
 
 油そばを食すときそれが油そばであるということを認識するという瞬間がある。今目の前にある料理が油そばでしかないのであるならばそれが油そばであるということをことさらに意識することによって油そばの固有の価値があるということに気が付く。そしてその料理の価値が料理それ自体への意識によって形成されるとするならば料理にとってこれほど幸福な現象はない。なぜならばその食の瞬間瞬間のなかで油そばが油そばとしての呼称を食されつつも引き継ぐというこの事態は油そばが料理人による作品であることを離れてもなお作品たりえているということでそこが他の料理と違う。ミートソース・スパゲッティであれカレイライスであれそのプレエトが供されるまでの時までがそれは料理人の作品で、だから食堂の客がその一皿をかき混ぜて食す時点で作品は作品であることを止めて食物に変貌する。油そばがそうではないとするならばそれはかき混ぜることが作品が作品であることを決して壊しはしないからでむしろ逆にかき混ぜることによって作品が作品として完成される。料理がこのような命運を辿るためには条件があって、料理人はその作品が作品であることの権利を訪れる客に引き渡さなくてはならなくて、訪れた客はその作品の権利を引き継ぎかき混ぜそして酢やラー油を好きなだけでもふりかけて味変と巷で呼ばれている行為でその作品を最終的に完成させる。支那そばの変種がまさかこのような事態を巻き起こすことは東京で暮らしていて旨いものを味わう舌をもつ我々にとっての幸福であるということはいうまでもなくて、割り箸を器用に割る瞬間から料理人と客の共作が進行形で形作られ、かつ食すという行為によってその作品は作品として生成しながらも消滅するのならばその儚い幸福の瞬間をこそ貴重な記憶としてとどめておくべきでありだからその儚い御馳走は自分好みの旨い作品にもなる。儚さとその都度違う作品が出来上がるのを求めて我々は油そば屋へ赴くということである。

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