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よくわかる『理の親』

「お助け」と「お救け」

理の親とは親神様、教祖だけだと言う事は簡単であるし、なるほど!と誰もが頷きたくなる文言である。だが一方で、おたすけとは教祖の名代となって世界助けのお手伝いをする事、つまり親の心となって身上事情で悩む子供達に救済の手を差し伸べる事だと教えられている。おたすけの現場で、自分の子供ならばどうするのだ!という自問自答の中にこそ親神様、教祖にお働き頂ける理が存在する。教祖の名代としての自覚、すなわち親の名代(理の親)としての自覚がなければ、おたすけにはならない。ただの隣人であったり、兄弟としての自覚とは全く次元の異なる問題である。一列兄弟として兄弟に助けの手を差し伸べたところで、それはお助けであってお救けとはならない。

親の働き(効能の理)

お道のおたすけで神様のお働きが見えない理由の一つに理の親の問題があると思う。教祖の名代(理の親)の自覚のない者、親心を持ってお救けに対峙しない者に神様がお働きになる道理はない。なぜ、効能の理が見えないのか?不信感がつのる。それは教祖の名代(理の親)としての自覚がないからである。つとめやさづけの効能の理もこの一点にかかっていると言って良い。

一列兄弟姉妹と理の親子

以上みてきたように、理の親とは親神様、教祖だけであり、人間を指して言う言葉ではない…という文言はお道の救済の意味が分かっていない事を表明しているにすぎない。お道の救済は理の親子という関係性の中でしか成り立たないからである。

一列兄弟姉妹として人間同士が助け会うことは、もちろん大切な事ではある。だが、親神様の救済のお手伝いをするという事は、全く次元の異なる局面である事を理解しおかなければならない。

神様のお働き(効能の理)をみせて頂く事が出来るのか、出来ないのか…その境界線は おたすけに当たって、兄弟姉妹として対峙するのか、理の親の自覚をもって対峙するのか、という一点にかかっているといっても過言ではない。

私達用木は神様がお望みくださる理の親になるよう成人の歩みを進めなければいけない思う。理の親子関係の復活こそお道の復活を意味するのであるから……

教祖は、三年経てば「親」となると教えられた

天理教教祖伝 逸話篇143【子供可愛い】


 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、

「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」
と、お諭し下された。
 源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。

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