社会公園論

「遊びをせんとや生まれけん」(梁塵秘抄)

少なくとも、自分はそう考えている。
人間社会とは、先人によって作られた公園なのだと。

街にある児童遊園は、子供にそれを知らせるための装置。
児童遊園に飽きた子供は、公園を出て街で遊び始める。
街に飽きた子供は、成人として社会で遊び始める。

経済学がいう所の「労働が生み出す財やサービス」もまた遊具。
たとえ労働が苦痛でも、家に帰ってネットで遊ぶ時間があるのなら、
その労働はブランコの順番を待って列に並んでいるようなもの。
並ぶ時間と乗る時間、どちらも公園で遊んでいる時間。

何年も同じ遊具で遊んでいれば やがて習熟してくる。
そして、中年の壁、成熟と停滞の分かれ道が現れる。
自分の遊具に熟達すれば、他の遊具との関係性も見えるようになる。
組織の歯車として働く人も、定款にある法人の社会的目的を自覚することで、自分の仕事を演繹的に理解し、それに沿った判断ができるようになる。
(自営業の人にとっては当たり前のことかもしれない)
それができない人にハンコを押す権限を与えれば、鉄棒の達人によって公園が鉄棒で埋め尽くされてしまう。

やがて、世にある遊具全般に飽きることができたなら、老人は木陰のベンチに座る。
泣いてる子供がいれば駆け寄り、危険な遊具があれば撤去を求める。
子供たちの笑い声が、老人の遊具になる。
ベンチに座る孤独な老人は、公園を残して死んでいった無数の人たちと、ひとつになる。


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